2011年2月20日日曜日

謙虚?

昨日は妻の仕事を午前2時まで手伝っていたため、今朝起きられず、結局午前中の礼拝には参加することができなかった。先週、3日も夜勤をこなしたあとにしっかりと礼拝出席していた、つわものの兄弟もいたけれど、僕にはそこまでの根性がなく、結局午後3時まで寝込んでしまった。

妻はすべての用事を終えてから3時くらいに帰ってきて、かき揚げうどんをつくってくれた。

その後、妻が昼寝をしている間、僕はネットで配信されているメッセージを聞くことにした。

タイトルは、”Humility, The Secret of Grace”。恵みの秘訣である謙虚さについてであった。

とてもよいメッセージであった。あの悪名高い悪の権化のようなイスラエル王のアハズでさえも、自分の非を認めてへりくだったときに神様は予定されていた裁きを延長され(第1列王記21:27-29)、へりくだる者に対して神は恵みを与えることが語られていた。

このメッセージを聞いたあと、僕は早速第一列王記のエリヤとアハズ王の一連の物語を読むことにした。エリヤがカルメル山でバアルの預言者と対決して大勝利を収めたところや、世話になっていたやもめの息子のためにお祈りして、その息子が死から甦ったところを読み進め、エリヤがオバデヤに会いに行くところあたりまで読んだときに、一本の電話が鳴った。

何だかちょっといやな予感がしたのだが、電話をとってみたら、案の定不動産のセールスの電話だった。

セールスの電話がくるとき、僕は大抵うちの電話番号はどこで入手しましたかと尋ねるようにしている。そうすると、大抵地域の電話番号を手当たり次第に順番にかけていますというような答えが返ってくる。そのあと、今は興味はないのでと丁重に断ると、大抵わかりましたと言って、電話を切っていただける場合が多い。

今回も僕はまず“この電話番号はどこで入手しましたか”と切り出したが、今回の人は “私はこの地域の担当なので”というあいまいな答え方をした。そこで僕はさらに突っ込んで、電話番号は個人情報ではないですかと言うと、相手の人は、いや電話番号は個人情報ではありませんと答えたので、ここから段々火がついてしまって口論になってしまい、僕も相手もむきになってしまった。

結局一度電話を切ったのだが、相手の人はもう一度電話をかけてきて“落ち着いてください”と言うので、僕はますますカーッとなってしまった。“おまえの会社の電話番号教えろ”と言ったら、“あなたが私の用件に答えないので、私もそれに答える義務はありません”と言われてしまい、何だかよくわからない話になってしまった。結局僕はもう一度電話を切り、しばらく電話線を外すことにした。

たとえしつこい勧誘の電話相手だとしても、怒ってしまったあとは何とも後味の悪いものである。僕も最後は相手に対して“おまえ”呼ばわりをしてしまったので、そこにはつい先ほどメッセージで学んだはずの“謙虚さ”はかけらもなかった。

僕は穏やかな性格のように見えるらしいが、実は一度何かのきっかけで逆上してしまうと、かなり怒りを爆発させてしまうときがある。後々になって、あのときはなんであそこまで怒ってしまったのだろうかと悔やんでしまう。なぜもう少し落ち着いて、理路整然と“謙虚”にNOがいえなかったのだろうかと。しかし、それがなかなかできないときがある。

妻も一部始終を聞いていたのだが、そういったしつこい勧誘電話をどうやってかわせばよいか、穏やかに教えてくれた。

何かのよい教えやメッセージを聞いたあとは、自分が霊的に少し向上したような気になるときがある。そして、平和で穏やかな気分でいたいものだ。しかし、主はそういうときにこそ、私たちの本当の姿をあえて見せてくださるときがあるような気がする。主は、別に意地悪をしているわけではないのだ。ある意味、僕らは自分の本当の姿を見てこそ、謙虚になれるのではないだろうか。自分の本当の荒削りな性格とみじめな姿を目の当たりにしてこそ、灰をかぶって、主の御前にへりくだることができるのではないだろうか。主が私たちの本当の姿を光の下で見せてくださること自体が大きな恵みなのかもしれない。あのとんでもないアハズ王でさえも一度は自分の非を認めてへりくだったときに、神様は恵みを授けたのだ。

結局そのあと妻とお祈りしてから、僕は一日外に出ていなかったので、スーパーに買い物に行った。とてもおいしそうなぶりとしめさばの刺身があったので、それを買ってきて、二人で楽しく食事することができた。

(上で紹介したメッセージは以下のサイトからダウンロードできます。すべて英語ですが、主に対してとても忠実な兄弟達のメッセージが多数聞けます。)
http://www.christiantapeministry.com/tape-page.php?id=3013

2011年2月5日土曜日

主の助けと導き

先日、小さいけれど次のような良いことがあった。

昼休み、あることでどうしようものかと思案しながら外を散歩していたのだが、会社に至る坂の入り口の前の角を曲がったとき、ちょうど相談したいと思っていた同僚にバッタリ出会った。

僕はすでに昼食は済ましていたのだが、とりあえず同僚が向かっている店まで一緒に行くことにした。その日は陽が出ていて、寒さの中でもポカポカと太陽の暖かさを感じることができ、歩いていて気持ちよかった。僕は同僚に自分の状況と自分の考えを説明し、話をしているうちに段々考えが整理されてきて、自分のとるべき行動と言うべきことが大体見えてきた。この同僚は、僕よりも社会経験のある人でしかもとても聞き上手なのだ。とりあえず同僚が向かっていたタイ料理屋まで行き、そこで別れた。

それからまた戻って、会社に至る坂を登っていたとき、もう一人の同僚に出会った。なぜか最近ちょっと気まずくなった同僚で、僕は仲直りできるようにお祈りしていたのだ。僕は彼に声をかけて、しばらく立ち話をした。大した話をしたわけでもないが、笑っている中になんとなく気まずさもなくなった。

そして気持ちよく仕事に戻ることができた。こうした小さいことの中に、主の助けと導きを感じることができた。

2011年1月28日金曜日

今日は代休をとりました


今日は代休をとって、妻と大船にあるスーパー銭湯、「湯快爽快」に行きました。


去年の11月頃から仕事で非常に厳しい状況が続いており、それが年を越し、さらに春先までヘビーな案件が重なります。


昨日はぎりぎりまでデータや見積もりなどの作成に追われていましたが、それを何とか終えて、終電の前の1本で帰ってきました。代休をとることを周りの同僚も喜んでくれました。

去年の年末は、毎日終電近くの電車で帰ってくる日々が続きましたが、ずっと家で待っている家内には相当な負担がかかってしまいました。僕の心も仕事のことでいっぱいになってしまい、夫婦でじっくり話をする時間が奪われてしまいました。


しかし、ここにきて夫婦が共に過ごす時間がどれほど大事なことであるかを思わされています。

そんなに大したことをしたわけでもないですが、お風呂に行ったり、買い物に行ったり、一緒にご飯をつくったり、今日はとても楽しかったです。

しかも、明日も明後日も休み!

(写真は去年ハワイのカイルアビーチで撮ったものです。)

天にある喜び

日常生活の中で受ける圧迫というものがある。例えば、会社生活でいうと、上司からのプレッシャー、お客さんからの理不尽な要求、難しい人間関係、長時間労働等々。もちろん、自分自身の弱さ、未熟さ、卑怯さがかえって自分を圧迫する結果をもたらす場合もよくある。この「私」が「私」を圧迫するのだ。

このような圧迫を受けるとき、「私」はその場から逃げ出したくなる。もっと楽で楽しい道があるのではないかと思うのだ。

しかし、「私」がこれらの圧迫を十字架として主イエスとともに担うとき、それは不思議と軽くなる。なぜなら、「私」は一人で十字架を負うのではなく、主とともに担うからだ。

人々から受ける憎悪というものがある。これは実に不思議なものである。なぜこれほど人から憎まれなければならないのか、わからないときがある。しかし、主イエスもこの地上で激しい憎悪に真っ向から直面せざるを得なかった。

サタンは神の御子を激しく憎んだ。そしてその同じ憎悪が、キリストの御霊を受けた私たちに向けられるときがある。主ははっきりと言われた。あなたがたはこの世で憎まれる、と。

こうした、日常生活の圧迫や憎悪の究極的な形が「十字架」であると言えるかもしれない。主イエスご自身も十字架にかかる前夜、そのあまりにもの壮絶さの前に苦しみもだえた。

しかし、その十字架の上で「私」は主とともに死に、あらゆる圧迫も憎悪もすべて死に至らしめられる。そして死に至ったとき、そこには静寂がある。

しばらく静寂のあとには復活の朝が訪れる。もはや圧迫も憎悪も消え失せ、すべては主の復活のご栄光の中に呑み込まれる。そしてそこに天の喜びがあるのだ。

私たちの喜びはこの地にあるものではない。もちろん、今日は食事がおいしかっただとか、天気がとてもよかっただとか、日常の普通のことは普通に喜ぶ。

しかし、私たちの喜びは究極的には地に属するものではなく、天に属するものである。

だから主はいみじくも言われた。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、またありもしないことで悪口雑言をいわれたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい、喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者もそのように迫害されました。」(マタイの福音書5章11-12節)

2011年1月23日日曜日

S兄弟の訪問

福島の山奥の山小屋で暮らしているS兄弟が今日ウチを訪問してくださった。
 
昨日電話をくださり、そして今日ウチにお迎えすることになったのだ。
 
主にある交わりは突然のときがある。
 
考えてみると、聖書の中でもかなり唐突に人が登場するときが度々ある。パウロがダマスカスに向かう途上でも主が唐突に現れ、パウロは地に倒れた。
 
人の計画によらずに、主の霊の中で歩むとき、突然交わりが与えられるときがある。
 
初めて会う兄弟と駅で待ち合わせをし、そしてすぐに打ち解けることができた。
 
鍋を囲って交わりを深めていくなかで、キリストの十字架と復活のリアリティーが強く心に迫ってきた。そして、兄弟が帰るときには、なんとも言えない霊の充実感があった。
 
自分の生活が知らず知らずのうちに、主の十字架を拒絶していたことに気づかされた。そして夫婦でそのことを悔い改めることができた。
 
主の十字架を経た復活の命。そこにこそ喜びがある。

2010年12月21日火曜日

ショッピングモールで起きた小さな奇跡(?)


妻のブログにもリンクが張ってありますが、こっちにもアップしました。年末の追い込みでくたくたになって帰ってきたのですが、このビデオを見たら元気が出ました。
 

向こうでは面白いことやりますね。妻はこのビデオ見て、涙が出たようです。
 
賛美ってすばらしいですね。

2010年9月11日土曜日

夏休み!

 

「あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。(詩篇71章20節)」
 
 
9月に入ってやっと夏休みをとることができ、妻と二人で伊豆七島の一つ、式根島に行ってきました。

 
  
本当に霊も心も体も休まる素晴らしい旅となりました。このような旅行を伴侶と一緒に経験できるというのも、結婚の大きな恵みですね。
 
(島で咲いていたハイビスカス)

(これは帰り東京湾に入ってから船上より撮った写真。京浜工業地帯も、こうして夕日に照らされると、美しい背景となります。)
   
旅の詳細は、どうか妻のブログ、http://joyinthehouse.blogspot.com/ も見てください!

2010年7月19日月曜日

主は私たちの弱い部分を取り扱われる

 
関心を持つがゆえに、私たちを愛するがゆえに、そして主の御目的に私たちを用いようとして、弱い部分を取り扱おうとなさいます。繰り返し繰り返し私たちの最も弱い部分が扱われます。同じ繰り返しの訓練の中で私たちは変えられていきます。
 
べテルというところで本当の意味で神の臨在を知ったヤコブでした。そのときから、彼の生涯は新しくされたはずです。
 
「私はあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。私は、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と神にはっきり約束されたヤコブです。彼は神を恐れる者とされました。
 
それならば、彼はいちいち神の御心を求めて、神に伺い、神のご計画に生きればよいはずです。慎重に御心を求め、果たしてこれが神の道なのか、それともあれが主の道か、そのように確認して進むべきではないでしょうか。
 
神の臨在を覚えて生きるということは、見えざる神への信仰者としての問いかけを前提としてのことでなければなりなせん。けれども、ヤコブはまだまだひとりで生きようとしている、ということではなかったかと思われます。
 
私たちはどうでしょうか。損にならないように必死で自分を守り、たとい些細なことでも小さくうそをつき、ごまかし、欺き、自分の小さな幸せを守ろうと必死になって、膠着した歩みのままでいるということはないでしょうか。神の聖さを少しも学ぶことができず、主の臨在を頭で理解しながら、具体的な歩みの中では矛盾した生き方を続けているということがあることを思います。それは何度も問われていることです。
 
けれども、神はそれをそのまま放っておくことをなさいません。見えざる神の御霊は私たちに問いかけ、私たちの傍らに立たれ、ご自身をお示しになり、そして、私たちを神の聖さに近づけようとされます。神に聖さに近づけられるので、いよいよ罪を思わされ、悔い改めへと導かれます。
 
あるときは、ヤコブのように、自分の為した失敗の結果を、反対の視点から見るように招かれることがある、ということです。自分こそ加害者であるということを知らせるために、神は被害者としての経験をお許しになることがあるということです。そうやって私たちは主に扱われ、ヤコブがそうであったようにその訓練の中で少しづつ変えられていくという恵みに与るのです。
 
そのとき突き放されたような孤独を感じるかもしれません。しかし、そこに神の臨在と愛を知るようにと挑戦なさいます。神がおられるということをもっと実感して知るように仕向けてくださいます。自分の力ではできないことですが、神が一方的な恩寵によって私たちを造りかえてくださり、聖化してくださるというのはそういうことなのです。神が勝手に何かをくださるというよりも、私たちの葛藤の現実のただ中に神がおられるということです。
 
そのような意味で初めの言葉をもう一度確認したいと思います。ヘブル人への手紙に、
 
「・・・『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」とあります。
 
ここで、この聖書の読者たちのことを、「その愛する者」「受け入れるすべての子」と言っています。
 
試みや戦いの中で、神様に愛されていることを知ることができるでしょうか。懲らしめや批判を経験しているときに、突き放された孤独と痛みの中でいじけてしまい、自分を慰めるだけの私たちでしょうか。それとも、懲らしめたり批判される、そういうお方の愛を確認することができるでしょうか。見えざる主の臨在を真の意味で知る者とされているでしょうか。自分を懲らしめるお方を愛することができるでしょうか。それとも自分は嫌われていると考えるでしょうか。
 
臨在を知ろうとせずに、ますます自分の悟りに頼って、我が道を行くことのないようにと願います。私たちのことを顧みられる主を賛美したいと思います。
 
(遠藤嘉信著「私を祝福してくださらなければ ‐ 荒削りの信仰者ヤコブの生涯」、第3章「試みられるヤコブ」よりの抜粋)

2010年6月28日月曜日

知識が知恵を妨げる



若い姉妹よ、将来のことを思い煩うことなく、静かな平安の中で生きてください。あなたがこの世で未来があるかどうかは、神様だけが知っておられます。もしかしたら、未来はないかもしれません。実際のところ、自分のものであるといえるような日は一日もないのです。クリスチャンは、今日という日を神様の計画に従って歩まなければなりません。今日という日は神様のものです。

今やっていることに続けて励んでください。あなたがその方向にいくべきと感じているのですから、きっと成し遂げられるでしょう。しかし、いっぺんに多くのことをやり遂げようとしないでください。何よりも、今この瞬間に忠実になってください。物事をひとつひとつ行えば、必要な恵みは充分に受けられるでしょう。

ただ単にこの世から離れているだけでは充分ではないことをあなたはきっと理解しているかと思います。私たちは、この世から離れ、それを誇りに思ってしまうことがあります。ですから、自分を低くすることに特別な注意を払わなければなりません。この二つのことの違いをよく理解してほしいのです。この世から離れるということは、この世の外的な事柄を放棄することです。しかし、謙虚になるということは、内なる自我が取り扱われることです。すべてのプライドを捨て去る必要があります。プライドがどれほど危険なものであるかわかりますか。特に、一見正しく温和に見える知恵や道徳の影に隠れているプライドが危険なのです。

私たちは、あらゆる状況において謙虚にならなければなりません。決して自分を誇ってはなりません。特に自分のすぐれたところや特別な能力を誇ってはなりません。私がこのように言うのは、あなたが自分の力、自己放棄、自分の正しさにあまりにも頼りすぎていると思うからです。これらはあなたの力ではないということを知る必要があります。それらは、神様のものなのです。

私たちは、赤ん坊から学ぶことができます。赤ん坊は、自分のものを何ももっていません。ダイヤモンドもりんごも同じように扱います。赤ん坊のようになってください。自分のものを何ももたないでください(どのみち神様のものですから)。自分を忘れてください。すべてのことにおいて道を譲ってください。最も小さき者を自分より偉大な者としてください。

お祈りするときは、心をこめて単純な祈りを捧げてください。これは、よく考えられて洗練された祈りよりも遥かに勝っています。

喪失を経験するとき、深い祈りと魂の沈黙の中で、最も多くを学ぶことができます。この中でこそ、自己中心的な思いを拒否し、謙虚さ、無名であること、弱さと従順を愛することを学ぶのです。これらのことは、この世ではあまりにも軽蔑されていますが、実は真理への先導役なのです。人間の知識は妨げにしかなりません。

From Letter 15 - "Our Knowledge Stands in the Way of Our Becoming Wise", Fenelon

2010年4月24日土曜日

日本とアメリカ

 
今日は、近所にある根岸米軍基地でFriendship Dayなるものが開催された。これは、普段立ち入るこのできない米軍の施設を地域の住民に開放し、日米親善を図る米軍主催のイベントだ。大体年に2回行われるのだが、うちから近いということもあって、僕たちはほぼ毎回行っている。入り口で荷物検査があり、それを通過すると、そこはもうアメリカの敷地内だ。
 
実は、15年ほど前、僕が大学生の頃、ここは普段でも一般の住民が入ることができた。米軍の施設といっても、軍事施設ではなく、あくまでも米軍住宅の付属施設のようなものであり、レストラン、スーパー、ボーリング場、プール、映画館などの施設がある。建物のつくりはやはりアメリカのものであり、日本にありながらも、アメリカを体験できる場所である。日曜日に教会の礼拝の帰り、みんなでこの根岸ベースにあるレストランで食事をしたこともあった。
 
今では中に入れるのは年に2回だけになってしまったが、その年2回のFriendship Dayでは、地域の人々がどっと押し寄せ、とてもにぎやかな場所になる。外国人も日本人も大勢いて、一瞬ここが日本なのかアメリカなのかわからなくなる。
 
僕にとっては、このような国際的な空間は実はとても心地よい。普段は日本人に囲まれて仕事しているわけだが、このようにいろいろな人種がいる環境は何だか落ちつく。
 
妻はイベントやお祭りが大好きで、バンドや和太鼓グループの演奏をとても楽しんでいた。
 
日本に駐屯している米軍に関しては、いろいろと問題が提起されているが、横浜の根岸では、割とお互いうまく共存しているようだ。それは、もちろんここが軍事施設ではないということも大きな要因かもしれない。
  
日本とアメリカの関係をいろいろと掘り下げてみると、いろいろなもつれや矛盾が沢山見えてくる。一番の問題は、やはり日本がなかなかアメリカから自立できず、アメリカも日本をなかなか自立させずに自分達に依存させておこうとするところにあるのかもしれない。この共依存的関係から抜け出し、お互い自立した国家として、ほどよい距離を保ちつつ尊重し合えるような日は果たしてくるのであろうか。現実を考えると、いろいろと難しい問題が未だに山積しているように思える。
  
国と国の関係というものはとても難しいものである。イエス・キリストは、終わりの日には、国は国に対して立ち上がり、民族は民族に対して立ち上がると、預言された。そしてまさしく現代の世界はそのようになっている。民族と民族との間の問題は、世界のどの地域を見ても、いろいろな問題が山積している。
 
しかし、そうしたいろいろな問題や矛盾の中でも、この根岸のFriendship Dayは、あまり深く考えずに、単純に国際交流と食べ物と音楽を楽しむ日だ。そして、僕もあまり深く考えず、単純にその場の雰囲気を楽しむようにしている。
  
妻は、食べ物や出し物をとても楽しんでいたが、今回はピーカンパイが売りに出ていなかったことを、あとでちょっと嘆いていた。なので、今度いつか桜木町にあるBubby’sで食べようねと言って慰めた。

2010年1月23日土曜日

今日のデートコースは...




定番の伊勢佐木町です!
 
まずはパスに乗って伊勢佐木町に向かい、それからブックオフに行ってから妻が探していた本を探し、それから元気寿司へ。本当は「元祖寿司」という名前のお店なのですが、なぜか私達は元気寿司と呼んでいます。ここは、サービスでつぶ貝マヨネーズを100円を切る値段で出していて、これが意外とおいしいです。



 
 
それから電車に乗り、「いふり湯」へ。今日は妻がちょっと神経痛になったみたいなので、いふり湯の黒湯が効くのではないかと思い、行くことに。大体妻は長くお風呂に入っているので、僕は早目にあがってから、いつもマッサージチェアをやり、それから新聞を読んでいます。そこには、読売新聞と神奈川新聞しかないのですが、読売も意外と面白いな、とここで発見しました。
 
それはともかく、「いふり湯」も本当の名前は「いなり湯」。ここもなぜか私達はずっと勝手につけた名前で呼んでいます。なぜ、私達は素直にその店の本当の名前で呼ぼうとしないのでしょうか。こういうどうでもいいような小さいところでも一致してしまうところに、相性の良さがあり、結婚に至ったのかもしれません。
 
ところで、私達もとうとう結婚満3年を超えました。3年目に入っての実感は、まずます一緒にいて楽しくなったということです。なんというか、呼吸が合ってきたというか、生活のパターンを二人でつくりあげてきて、その基礎がほぼ完成しつつあるというフェーズに来たのかもしれません。
 
もちろん、結婚の確かな土台はやはり主イエス・キリストであることには間違いありません。
 
聖書は驚くべきことを言っています。
 
「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子にあって造られ、御子のために造られたのです。
 
御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
 
(コロサイ人への手紙1章16-17節)」
 
このイエス・キリストに結婚生活、そして人生の土台を置けば、まず間違いはないと、結婚生活4年目に入ってますます確信を深めています。
 
というわけで、これから伊勢佐木町に向かいます!


追記:
 
デートから帰ってきました。寿司もおいしく、風呂も気持ちよかった!
 
さて、今日の戦利品:



ブックオフとその他古本屋2軒を巡り、この4冊で何と総額1550円!


左から、
 
小型口語訳聖書 (皮のカバー) - 僕は口語訳がけっこう好きで、通勤で持ち運べる小型聖書を探していました。
 
三谷幸喜著 気まずい二人 - 妻は三谷幸喜の本にはまっています。
 
三浦綾子著 イエス・キリストの生涯 - 良さそうなので買いました。
 
ロイドジョンズ著 詩篇73篇 附ハバクク書講解 - これは貴重な本だと思い買いました。何と1971年発行。僕が生まれた年です。正しき者の苦しみという、深いテーマを取り上げています。

2010年1月4日月曜日

神の愛を忘れるほどまでに自分の欠点に失望しないように




自分の欠点を気にしすぎないようにしてください。それよりも、イエス様に対する尽きぬ愛をもつことに集中しましょう。多く愛する者は多く赦されます(ルカ7:47)。しかし、愛そのものよりも、愛の気持ちよさ、自己中心的なワクワク感(これらは愛の副産物です)を追い求める傾向に気をつけなければなりません。わたしたちは、簡単に自分を欺いてしまいます。「愛」に集中するあまり、重要なポイントを完全に見逃すことがあります。あなたは最愛の方その人よりも、愛に心を奪われていると、聖フランシスコ・サレジオは言いました。もしわたしたちの愛の主な対象がイエスであるならば、わたしたちはイエスの愛にすっぽりと包まれます。しかし、イエスの愛を確かめようといつも気を揉んでいるとすれば、まだ自我に囚われているのです。


イエスの霊を通して、平安の内に自分の欠点を見つめるとき、イエスの愛の神秘の中でそれは消えていきます。しかし、イエスがわたしたちを愛してくださっていることを忘れて、自分の欠点に気をとられるとき、わたしたちは落ち着きを失い、神の臨在が妨げられ、神の愛の流れが堰きとめられます。自分の欠点を恥ずかしく思うあまり、神の愛を忘れてしまうならば、そのことが欠点そのものよりも大きな間違いとなり得ます。ですから、自分の欠点に失望しすぎないようにしましょう。先日次のような人に会いました。その人は、ある聖徒の物語を読んだ後、自分の人生との違いに腹が立ち、献身的なクリスチャン生活を歩むことを諦めてしまいました。この人のようにはならないでください。
 
あなたからの手紙を読むとき、その筆跡から平安と自由伝わってきて、それだけあなたが忠実に歩んでいることがわかります。あなたがより平安に満ち、より自由であるほど、あなたは神により近いようです。

From "Letter 13 - Despair at Our Imperfections Is a Grater Obstable Than the Imperfection Itself" in "Let Go", written by Fenelon