2009年7月2日木曜日

骨がひとつだに折られることがない


 

最近はとかく悩みが多かった。
 
会社の業績が悪化し、全社員3ヶ月間給料が一律20パーセントカットになった。それに伴い、人員整理も行われ、僕と親しくしていた同僚2人に加え、5人ほどリストラに。
 
従業員と経営側との間でちょっとした争議にもなった。
 
今ようやく落ち着いてきて、給与カットされた分は年末には返ってくることにはなっているが、やはり、同僚のリストラは精神的に大きな打撃だった。
 
それに加え、アメリカにいる弟が今就職難で生活が困窮している。少しばかりは援助したが、困窮した生活を送る弟のことを思うと、何とも気が重い。
 
こんなことをブログで書いても、読む方もうんざりするだろうから、書かなかった。が、書いてしまった。人間、やはり心の中に溜まったことは吐き出した方がよさそうだ。
 
こうした中で一つの聖書のことばが僕の心をとらえた。


「正しい者には災いが多い。
 
しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
 
主は彼の骨をことごとく守られる。
 
そのひとつだに折られることはない。
 
(詩篇34篇20、21節 - 口語訳)」
 
 
正しい者はには災いが多い。なるほど、そうなのか。僕は決して、自分を「正しい者」であるとは思わないが、しかし、災いや苦労は多いものなのか、と、このみことばを読んで妙に納得してしまった。
 
確かに考えてみれば、聖書に登場する人物は、実に多くの災い、苦労を経験している。
 
モーセ、ダビテ、エリヤ、イザヤ、数えたらきりがない。
 
使途パウロにいたっては、
 
「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、うえ渇き、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしにせまってくる諸教会の心配ごとがある。(第2コリント人への手紙 11章24-28節)」
 
と、まさに苦難のオンパレードである。しかし、彼が、
 
「もし誇らねばならないのなら、私は自分の弱さを誇ろう」
 
とこの箇所で続けて言っているのは、素晴らしいと思う。
 
そして、イエス様は、まさに災いと苦難の究極の形、「十字架」を耐え忍ばれた。
 
しかし、彼らがこうした苦難を経ても、「骨一つ折られなかったこと」も事実だ。ある意味、この詩篇は、イエスさまが十字架の上で骨が折られることがなかったことも預言しているのかもしれない。
 
苦難というものは、それぞれが耐えられるキャパシティーがあるので、比べることはできないが、2000年前の使徒の時代も大変であれば、現代日本のサラリーマン生活もなかなか大変だ。どっちが大変かといえば、まあ、やはり使徒の時代だろうと思うが、しかし、全体的に鉛色の空が覆いかぶさっているかのような今の時代で、サラリーマン生活をするのもなかなか大変だ。比べるのは無意味かもしれない。
 
しかし、その「すべての中から助け出されて骨ひとつ折られない」というのは素晴らしいと思う。これは、まさに主の約束なのであるから。
 
まあ、とにかくもう少し楽しいことを書けるといいのだが、僕はどうしても、なぜか文章を書くとこういう調子になってしまう。
 
前にも書いたが、妻は、いろいろと日常の出来事を楽しく書けるから、これは本当に才能だと思う。
 
まあ、いろいろあった中で妻が支えてくれたのは、本当に大きかった。やはり、結婚というのもよいものである。
 
また、今月給料カットされる中で、妻に臨時収入があった。まさに主は必要を備えてくださった!