2019年1月19日土曜日

尹東柱について(日韓関係について思うこと)



僕が敬愛している詩人のうちの一人に尹東柱という詩人がいる。大学の朝鮮語の授業で先生に紹介していただいた詩人である。

彼の代表作には「序詩」という詩がある。19411120日に書いた詩だ。以下に原文、伊吹郷訳、そして金時鐘訳を掲載する。

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서시

죽는날까지 하늘을 우러러
한점 부끄럼이 없기를
잎새 이는 바람에도
나는 괴로워했다
별을 노래하는 마음으로
모든 죽어가는 것을 사랑해야지
그리고 나한테 주어진 길을
걸어가야겠다
오늘밤에도별이바람에스치운다
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序詩(伊吹郷訳)

死ぬ日まで空を仰ぎ
一点の恥辱(はじ)なきことを、
葉あいのそよぐ風にも
私は心傷んだ。
星をうたう心で
生きとし生けるものを
いとおしまねば
そしてわたしにあたえられた道を
歩みゆかねば

今宵も星が風に吹き晒される
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序詩(金時鐘訳)

死ぬ日まで天を仰ぎ
一点の恥じ入ることもないことを、
葉あいにおきる風にさえ
私は思い煩った
星を歌う心で
すべての絶え入るものをいとおしまねば
そして私に与えられた道を
歩いていかねば。

今宵も星が 風にかすれて泣いている
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僕は1993年ごろに初めてこの詩を読んだ記憶がある。当時、二十才を過ぎたばかりの僕にとって、「一点の恥辱なきことを」願って歌う詩人のことばが心に響いた。この詩を書いた当時は、東柱はまだ24才ごろではなかったかと思われる。

もう今年で48才になる僕は、振り返ると、恥辱だらけの人生だ。しかし、アラフィーになった今でも、朝鮮の青年が「一点の恥辱なきことを」祈るように願う心に胸を打たれる。

모든죽어가는것을사랑해야지
그리고 나한테 주어진 길을 걸어가야겠다
という一節には、かなりの重みがある。

伊吹郷訳では、「生きとし生けるものをいとおしまねば そしてわたしにあたえられた道を歩みゆかねば」となっており、金時鐘訳では、「すべての絶え入るものをいとおしまねば そして私に与えられた道を歩いていかねば。」となっている。

この一節を直訳すると、「すべての死にいくものを愛さねば そしてわたしにあたえられた道を歩みゆかねば」となる。

両者が「いとおしむ」と訳した原語は「사랑(サラン)」である。サラン(愛)という言葉は、韓流ドラマなどを通して日本人にもなじみのあることばであろう。

東柱は、この詩を書いた後、日本に留学した。立教大学で学んだ後、同志社大学に入学する。その後、民族運動を煽動した嫌疑で逮捕された。極めて厳しい時代である。彼は朝鮮語で詩を書くことを止めなかったのだ。福岡刑務所に収監された後、朝鮮独立を6ヶ月前にした1945216日、大声で何かを叫び、息絶えた。

僕の勝手な解釈かもしれないが、東柱は、序詩を書いた時点で既に自分の生涯が長くないことを予見していたのではないか。そして、彼が「すべての死にいくもの」と言った場合、当然、過酷な植民地支配を強いた日本人も含まれていたはずである。

安易かもしれないが、僕はこの一節は直訳して、「すべての死にいくものを愛さねば」としてもよかったと思う。しかし、訳者は、訳に悩んであろうと思う。

そういえば、当時、朝鮮語の授業を受け持っておられた大村益男先生は、授業の中でこの一節を取り上げて、とても熱く語っておられたことを覚えている。残念ながら、その内容については覚えていないが、大学院時代のご専門が中国文学であったにも関らず、朝鮮文学と韓国・朝鮮の文化をこよなく愛された先生にとって、この一節はとても大事な箇所であったのだと思われる。

最近、戦後かつてないほど日韓関係が悪化している。しかし、日本人にとっても、韓国人にとっても、1941年の時点で尹東柱が抱いたこの心情が一つの回帰点になり得るのではないかと思っている。

6年ほど前、僕がかつて通っていた教会に、90歳近くの在日韓国人のハラボジ(おじいさん)が通うようになっていた。ハラボジも戦前に日本に渡ってきて、医者になり、小さな医院を営んでいた。ちょうど尹東柱と同じ年代の方だったので、僕はハラボジに興味を抱き、いろいろと話をするようになった。

ハラボジがとつとつとお話される中で、日本の社会で激しい差別に苦しまれたことを感じた。「差別」については、いろいろな方が持論を述べるが、こればかりは、経験した者にしかわからないものと思っている。僕もハラボジの真の心情はついに理解できなかったと思う。

ハラボジが体調を崩して、入院した際に、一度だけお見舞いに行くことができた。そして、そのとき、韓国語で一緒に讃美歌を歌った。「キリストには変えられません」を韓国語で歌った。

ハラボジは、僕の韓国語の発音をとても褒めてくださった。「日本語より上手だよ」とも言ってくださった。それが僕への最後のことばだった。20代のころ、韓国語の習得に情熱を傾けた僕にとっては、ハラボジのことばは非常にうれしかった。僕がお見舞いした2週間ほど後、ハラボジは天に召された。

尹東柱と同世代であろうハラボジの最後のことばは、今でも胸の奥に大事に閉まってある。