2013年5月20日月曜日

石の柱

大分前に書いた記事の続きになります。

ヤコブがべテルで築いた石の柱は何を意味してたのでしょうか。

「翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上の油を注いだ。創世記28章18節)」

枕にしていた石ですから、それほど大きくないでしょう。せいぜい、幅が30-40センチ、長くても50センチ程度かと想像します。

それを「立てた」と記載されてありますが、ヤコブが石に何か彫り物したとか、何か加工を施したとか、そういったことは記載されていません。

何の変哲もない石がただ立っていたのです。

なので、事情を何も知らない人が通りかかったら、「なぜここで石が立っているのだろう」と思うほかは、何か格別な感動を受けるような光景でもなかったかもしれません。

しかし、聖書では、ここがまぎれもなく最初に「神の家」として記載されています。

石といえば、連想するのはやはりキリストです。

「主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。(第一ペテロ2章4節)」

主が「家」を建てるとき、それは人の建て方とは本質的に違うようです。

この世を愛してはならない

この世を愛してはならない、と主が言われたことを今日はなぜか帰りがけに思い起こさせられた。

「この世」とは一体何か。これはとても深い意味がある。主イエスは、なぜ、一見この世にまみれていたザーカイに対しては一言も叱責せず、反対にこの世から離れているように振舞っていたパリサイ人たちを痛烈に叱責したのか。

ここがやっかいなところである。「この世」の本質をクリスチャンは知る必要がある。

一方で、この世にあって「ふつう」に生きることはとても大事なことだと思う。実は、これがとても難しいのだ。

「この世」にありながら、「この世」から自由になる。これがクリスチャンの本来の生き方ではないか。

「この世」を愛さずに、神と隣人を愛するのである。