2011年1月28日金曜日
今日は代休をとりました
今日は代休をとって、妻と大船にあるスーパー銭湯、「湯快爽快」に行きました。
去年の11月頃から仕事で非常に厳しい状況が続いており、それが年を越し、さらに春先までヘビーな案件が重なります。
昨日はぎりぎりまでデータや見積もりなどの作成に追われていましたが、それを何とか終えて、終電の前の1本で帰ってきました。代休をとることを周りの同僚も喜んでくれました。
去年の年末は、毎日終電近くの電車で帰ってくる日々が続きましたが、ずっと家で待っている家内には相当な負担がかかってしまいました。僕の心も仕事のことでいっぱいになってしまい、夫婦でじっくり話をする時間が奪われてしまいました。
しかし、ここにきて夫婦が共に過ごす時間がどれほど大事なことであるかを思わされています。
そんなに大したことをしたわけでもないですが、お風呂に行ったり、買い物に行ったり、一緒にご飯をつくったり、今日はとても楽しかったです。
しかも、明日も明後日も休み!
(写真は去年ハワイのカイルアビーチで撮ったものです。)
天にある喜び
日常生活の中で受ける圧迫というものがある。例えば、会社生活でいうと、上司からのプレッシャー、お客さんからの理不尽な要求、難しい人間関係、長時間労働等々。もちろん、自分自身の弱さ、未熟さ、卑怯さがかえって自分を圧迫する結果をもたらす場合もよくある。この「私」が「私」を圧迫するのだ。
このような圧迫を受けるとき、「私」はその場から逃げ出したくなる。もっと楽で楽しい道があるのではないかと思うのだ。
しかし、「私」がこれらの圧迫を十字架として主イエスとともに担うとき、それは不思議と軽くなる。なぜなら、「私」は一人で十字架を負うのではなく、主とともに担うからだ。
人々から受ける憎悪というものがある。これは実に不思議なものである。なぜこれほど人から憎まれなければならないのか、わからないときがある。しかし、主イエスもこの地上で激しい憎悪に真っ向から直面せざるを得なかった。
サタンは神の御子を激しく憎んだ。そしてその同じ憎悪が、キリストの御霊を受けた私たちに向けられるときがある。主ははっきりと言われた。あなたがたはこの世で憎まれる、と。
こうした、日常生活の圧迫や憎悪の究極的な形が「十字架」であると言えるかもしれない。主イエスご自身も十字架にかかる前夜、そのあまりにもの壮絶さの前に苦しみもだえた。
しかし、その十字架の上で「私」は主とともに死に、あらゆる圧迫も憎悪もすべて死に至らしめられる。そして死に至ったとき、そこには静寂がある。
しばらく静寂のあとには復活の朝が訪れる。もはや圧迫も憎悪も消え失せ、すべては主の復活のご栄光の中に呑み込まれる。そしてそこに天の喜びがあるのだ。
私たちの喜びはこの地にあるものではない。もちろん、今日は食事がおいしかっただとか、天気がとてもよかっただとか、日常の普通のことは普通に喜ぶ。
しかし、私たちの喜びは究極的には地に属するものではなく、天に属するものである。
だから主はいみじくも言われた。
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、またありもしないことで悪口雑言をいわれたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい、喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者もそのように迫害されました。」(マタイの福音書5章11-12節)
2011年1月25日火曜日
2011年1月23日日曜日
S兄弟の訪問
福島の山奥の山小屋で暮らしているS兄弟が今日ウチを訪問してくださった。
昨日電話をくださり、そして今日ウチにお迎えすることになったのだ。
主にある交わりは突然のときがある。
考えてみると、聖書の中でもかなり唐突に人が登場するときが度々ある。パウロがダマスカスに向かう途上でも主が唐突に現れ、パウロは地に倒れた。
人の計画によらずに、主の霊の中で歩むとき、突然交わりが与えられるときがある。
初めて会う兄弟と駅で待ち合わせをし、そしてすぐに打ち解けることができた。
鍋を囲って交わりを深めていくなかで、キリストの十字架と復活のリアリティーが強く心に迫ってきた。そして、兄弟が帰るときには、なんとも言えない霊の充実感があった。
自分の生活が知らず知らずのうちに、主の十字架を拒絶していたことに気づかされた。そして夫婦でそのことを悔い改めることができた。
主の十字架を経た復活の命。そこにこそ喜びがある。
昨日電話をくださり、そして今日ウチにお迎えすることになったのだ。
主にある交わりは突然のときがある。
考えてみると、聖書の中でもかなり唐突に人が登場するときが度々ある。パウロがダマスカスに向かう途上でも主が唐突に現れ、パウロは地に倒れた。
人の計画によらずに、主の霊の中で歩むとき、突然交わりが与えられるときがある。
初めて会う兄弟と駅で待ち合わせをし、そしてすぐに打ち解けることができた。
鍋を囲って交わりを深めていくなかで、キリストの十字架と復活のリアリティーが強く心に迫ってきた。そして、兄弟が帰るときには、なんとも言えない霊の充実感があった。
自分の生活が知らず知らずのうちに、主の十字架を拒絶していたことに気づかされた。そして夫婦でそのことを悔い改めることができた。
主の十字架を経た復活の命。そこにこそ喜びがある。
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