2011年3月26日土曜日

この地上で最も安全な場所

「主はいつくしみ深く、

苦難の日のとりでである。

主に身を避ける者たちを

主は知っておられる。」

(ナホム書1章7節)


この地上で最も安全な場所、それは主ご自身ほかならない。


「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。

あなたは、その翼の下に身を避ける。

主の真実は、大盾であり、とりでである。

あなたは夜の恐怖も恐れず、

昼に飛び来る矢をも恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、

真昼に荒らす滅びをも。」

(詩篇91編4-6節)


このとき、主の下に身を避ける人は本当に幸いです!

2011年3月13日日曜日

堅固なる岩

神はわれらの避け所また力である。

悩める時のいと近き助けである。

このゆえに、たとい地は変わり、

山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。

たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、

そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。

(詩篇46篇1-3節)

キリストは堅固なる岩。ここに立っている限り、天地が揺れ動こうと、恐れる必要はありません。

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11日の14時半ごろだったのでしょうか、私はオフィスにいました。地震の後、社員のみんなと一度避難所の公園に行き、それから会社から解散してよいとの知らせがあったので、またオフィスに戻り、荷物をとってから、横浜の自宅に向かいました。

中目黒から横浜まで歩いて6時間。途中下丸子で一度マクドナルドで休憩しました。横浜着いてから、バスに乗ることができ、11時半には家につきました。歩きながら、そういえば昔の人はみんな歩いてたんだんなあと思い、現代人が如何に足腰が弱くなったかを思わされるときでした。イエス様の時代の人だったら、軽々と徒歩で帰っていったかもしれません。但し、アスファルトの上を歩くというのは、意外とつらいものでした。山歩きとは勝手が違いました。

電話は、家内に2度つながりました。一度は地震の後。それから、次は下丸子のマクドナルドで休憩していたとき。本当に感謝でした。

私達はこの程度で済んでいますが、東北の被災地にいる方々はさぞかし想像を絶する困難の中におられると思います。日々お祈りするとともに、何が私達にできるか、模索したいと思います。

天地はやがて崩れ去るときがくると聖書には書いてあります。しかし、決して揺るぐことのない堅固な岩なるキリストにこそすべての希望があります。

2011年3月8日火曜日

ゆえなく愛される

この前の日曜日、礼拝の後、K兄弟としばらく交わりをもつ機会があった。K兄弟は、小学校で美術教師をされていた方で、機会がある度にいろいろとお話をさせていただいている。

僕が以前このブログで書いた記事、「天の喜び」についてどう思うかと尋ねたところ、そうだね、ゆえなく憎まれるというようなこともあるけれど、ゆえなく愛されるということもあるのではないかな。例えば、妻を愛することなど、ゆえなく愛することなんだよな、と答えてくださった。

「ゆえなく愛される」。

これはいいことばだな、と思った。

理由はよくわからないけれど、でも愛されている。

御子イエス・キリストを通して、神様が私達に示された愛はかくも神秘的である。

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妻が長旅(といっても一週間でしたが)から今日やっと帰ってきた。一週間「沈黙の館」と化したこのアパートの一室もまたにぎやかになった。

2011年3月2日水曜日

4千年前の祝福

使徒パウロはびっくり仰天するようなことを沢山書いている。その中のひとつに「4千年前の祝福」がある。

厳密に言うとパウロから見たら約2千年前だが、私達から見ると実に約4千年前である。その時代に生きた人に与えられた祝福が、今日生きる私達に、キリストを信じる信仰に通して与えられるのだ!

「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。(ガラテヤ人への手紙3章19-20節) 口語訳)」

2011年3月1日火曜日

私はすでに死んでいる?

主人公が敵にとどめを刺した後、「お前はすでに死んでいる」という決め台詞を言い放つ漫画が大分前に流行ったが(こう書くと僕の年代が大体わかりそうだが…)、この決め台詞よりもさらに衝撃的なことを使徒パウロは書いている。

すなわち、「私はすでに死んでいる」と。

「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉によって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラテヤ人への手紙2章19-20節 口語訳)」

キリストにある者は、すでにキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に死んだのだ!

そして、そのことにより罪の力から解放され、キリストと共に生き、御霊によって歩む者とされたのである。

これは何年クリスチャンをやっていても、いつもびっくりさせられる偉大な神秘だ。