2011年11月7日月曜日

40才になりました

11月4日で40才になりました。

それで、このブログのタイトルも「40代の呟き」に変えてみました。

いろいろと書きたいことや、呟きたいことは沢山あるのですが、今までなかなかそういったことがうまくまとまらず、あまり書いてきませんでした。

でも、40才になったことをきっかけに、あまりかっこつけずに素直の思うところを書いてみようと思います。

仕事は、相変わらず猛烈に忙しいです。

僕は、翻訳会社に勤めていて、いわゆる「ローカライズ」という仕事をしているのですが、一言でいうと、電子機器の取り扱い説明書の外国語版を制作しています。

今某社のビデオカメラの取説を19言語分担当しています。

19言語を扱う、というのは実はとても不可能なことなのです。

ここ最近は、帰宅するのが毎日深夜過ぎ。休日や土曜日も出勤します。

本当に忙しいです。もちろん、世の中にはもっと忙しい人もいるし、その反対にもっと楽している人もいます。

ただ、思うのは、やはり家族と過ごす時間が犠牲になることはよくない、ということです。

このように残業続きだと、家族にも大きな影響を及ぼします。ウチは子供がいないのですが、毎日深夜過ぎに帰宅する夫を待つのは妻にとっても大きな負担です。

せめて、週に2、3回は妻と一緒にご飯を食べられる時間に帰宅できることがささやかな願いです。

今のこうした生活からどのように抜け出せるのか、僕もまだわかりませんが、きっと主がそのような道も開いてくださるでしょう。

もちろん、今の猛烈な忙しさも決して無駄ではないと思います。

でも、いつかはこの異常な働き方に終止符を打ち、家族ときちんと時間を過ごす生活を送れるようにしなければならないと思っています。

2011年6月27日月曜日

最も深い闇の中で

「地は形がなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1章2-3節)」

神様はどんな暗いところでも、光を「在らしめる」ことができるお方です。神様が光を在らしめることのできない程の深い闇は存在しないことを、この創世記の最初の数節は示しています。ここには天地創造の前の闇があったわけですから、いわば究極の闇がありました。

人間はエネルギーをつくりだすことはできません。人間は神様のつくりだしたエネルギーによる恩恵で日々生かされています。自然の法則に逆らって人間がつくった(或いは破壊によって捻出した)エネルギーが如何に悲惨な結果に招いたかを今日私たちは見ることになりました。人間のつくったこの不自然なエネルギーは、死のにおいが充満しています。それに対して、神がつくりだすエネルギーにはいのちがあります。これは誰もが今日感じていることかと思います。

神様は、人間社会の最も暗いところにいる者の中にも光を宿らせることができます。その光は「復活のキリスト」です。復活のキリストの光は、この世が放つ光とは決定的に違います。

驚くことに、神様はご自身の光が宿るように、この世で見捨てられた人々、とるに足らない者を選ぶのです。

自分の弱さや愚かさを見るとき、そこには輝くようなものは何もないかのように感じます。そう、実際に何もないのです。しかし、この何もない私たちの中に、突如として復活のキリストは輝くのです。これは偉大な神秘です。

しかも、このことは十字架の死を通して、日常で受ける圧迫の中で、キリストと共に死ぬときに実現するのです。

人間社会の最も深い闇の象徴である十字架。この最も深い闇の中に、神様は突如光を「在らしめる」のです。

2011年6月12日日曜日

うれしい出会い

今日の夜、妻が東京駅から高速バスに乗って東北に旅立ちました。3泊4日の短い旅となります。

いわきに夜中に着き、そこでいわきの教会のチームに合流し、車で岩手の大槌町に。避難所から仮設住宅への引っ越しのお手伝いなどもするそうです。

かねてから東北でボランティアをしてきたM姉妹と一緒に行くことになりました。僕はいろいろとあって、なかなかボランティアに行くことができないというか、主がお許しにならないのですが、妻に行く機会が与えられて、とてもうれしいです。

僕は家内を見送りに東京駅まで行ったのですが、とてもよかったのは、そこに同じく見送りに来ていた二人の韓国人のクリスチャンの青年と出会えたこと。家内とMさんを見送ってから、3人で八重洲地下街の喫茶店に入ったのですが、いろいろな交わりをもつことができました。

今回の日本の震災を取材していて、ビデオを制作しているSさん。もう一人は日本に留学している大学生で、既に被災地も訪れているMJさん。二人とも、今回の日本の震災に対して深い思いがあり、いろいろなかたちで関わりをもつように導かれているようです。

思いもよらず、クリスチャンの兄弟姉妹との交わりに導かれたときは、いつもそこに大きな喜びがありますね。世代や国は違っていても、深いところでキリストにあって同じ思いを共有できるからです。普段自分が生きている小さく狭い世界から解き放たれて、より広い場所へと導かれるような感じです。

以下にSさんが制作したビデオがあるので、よかったら是非見てください。若いクリスチャン達のとてもすばらしい証があります。


2011年5月22日日曜日

休み

このところ、仕事で猛烈な忙しさが続いていました。

先週は終電近くまで仕事する日が大半で、毎日膨大なメールの数を処理し、関係会社からも何度も電話が掛かってくる中、何とか情報をすべてまとめて指示を出すために、ずっとパソコンに張り付いている状態でした。

20日の金曜日に一応納品が終わり、土曜日は自宅のパソコンからリモート作業でデータの整理を行い、ようやくひと段落しました。

実は、今週からしばらく休みをもらえることになったのです。恐らく明日出勤していろいろと見積もりを回収したり引継ぎを行った後、残り一週間は休めるかもしれません。

これは本当に大きな恵みです。休みの間は、妻と一緒にゆっくりしようかと思っています。

2011年4月24日日曜日

すべての希望は主イエスに!


最も困難で不可能なもの。

それは、「自分」ほかならないことを、ここ数日痛感させられています。

自我の塊のような「自分」。罪に簡単におびき寄せられる「自分」。

この「自分」を見れば見るほど、暗闇の中に沈んでいきます。しかし、その暗闇の淵から目を上げて、主イエス・キリストの十字架の死と復活を見るとき、そこには、この「自分」を完全に呑み込んでしまうような栄光の輝きがあります。

この「自分」は主イエスと共に十字架につけられ、そして、主イエスと共に生きるものとされた。

これは何と素晴しいことでしょうか。

この「自分」にはまったく希望はありませんが、主イエスにはすべての希望があります!

2011年4月17日日曜日

心を裂いて祈る

最近ずっと心に突き刺さっている聖書のことばがある。

主は言われる、
「今からでも、あなたがたは心をつくし、
断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。
あなたがたの神、主に帰れ。
主は恵みあり、あわれみあり、
怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、
災いを思いかえされるからである。
(ヨエル書2章12-14節、口語訳)

今、日本の歴史が始まって以来の未曾有の艱難の中、クリスチャンにはまさに心を「裂いて」祈ることが求められているのだと思う。

2011年4月5日火曜日

Wさんの訪問

今日はWさんが突然昼に会社を訪れてきた。Wさんは僕が勤めている会社の元従業員で、かつてDTPスペシャリストとして働いていた。今はホテルで洗い場の仕事をしている。

60歳近い年齢で、若い人のスピードにはついていけず、また外国人でもあるために日本語にハンデがあった。Wさんの立場があまりにも弱すぎた。会社の業績が下降線をだどったとき、無情にもリストラの対象になってしまった。2年前のことである。

昨日電話をもらっていたが、まさか会社まで来るとは僕も思っていなかった。Wさんが会社に姿をあらわすと、かつての同僚達が集まって大変喜んでいた。Wさんは大変な人気者だったのだ。

ひととおりみんなに挨拶したあと、僕はWさんと中目黒川沿いへ散歩しに行った。七分咲きの桜を愛でながら、ジュースを飲んでイカ焼きを食べ、いろいろと話をした。

いろいろと会社も揺さぶられている中、僕も今日は妙に気が塞いでいたので、Wさんの突然の訪問はとても大きな恵みであり、慰めだった。

みんなも、たくましく、しかし柔和に生きているWさんにきっと励まされたのだと思う。

2011年3月26日土曜日

この地上で最も安全な場所

「主はいつくしみ深く、

苦難の日のとりでである。

主に身を避ける者たちを

主は知っておられる。」

(ナホム書1章7節)


この地上で最も安全な場所、それは主ご自身ほかならない。


「主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。

あなたは、その翼の下に身を避ける。

主の真実は、大盾であり、とりでである。

あなたは夜の恐怖も恐れず、

昼に飛び来る矢をも恐れない。

また、暗やみに歩き回る疫病も、

真昼に荒らす滅びをも。」

(詩篇91編4-6節)


このとき、主の下に身を避ける人は本当に幸いです!

2011年3月13日日曜日

堅固なる岩

神はわれらの避け所また力である。

悩める時のいと近き助けである。

このゆえに、たとい地は変わり、

山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。

たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、

そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。

(詩篇46篇1-3節)

キリストは堅固なる岩。ここに立っている限り、天地が揺れ動こうと、恐れる必要はありません。

.............................

11日の14時半ごろだったのでしょうか、私はオフィスにいました。地震の後、社員のみんなと一度避難所の公園に行き、それから会社から解散してよいとの知らせがあったので、またオフィスに戻り、荷物をとってから、横浜の自宅に向かいました。

中目黒から横浜まで歩いて6時間。途中下丸子で一度マクドナルドで休憩しました。横浜着いてから、バスに乗ることができ、11時半には家につきました。歩きながら、そういえば昔の人はみんな歩いてたんだんなあと思い、現代人が如何に足腰が弱くなったかを思わされるときでした。イエス様の時代の人だったら、軽々と徒歩で帰っていったかもしれません。但し、アスファルトの上を歩くというのは、意外とつらいものでした。山歩きとは勝手が違いました。

電話は、家内に2度つながりました。一度は地震の後。それから、次は下丸子のマクドナルドで休憩していたとき。本当に感謝でした。

私達はこの程度で済んでいますが、東北の被災地にいる方々はさぞかし想像を絶する困難の中におられると思います。日々お祈りするとともに、何が私達にできるか、模索したいと思います。

天地はやがて崩れ去るときがくると聖書には書いてあります。しかし、決して揺るぐことのない堅固な岩なるキリストにこそすべての希望があります。

2011年3月8日火曜日

ゆえなく愛される

この前の日曜日、礼拝の後、K兄弟としばらく交わりをもつ機会があった。K兄弟は、小学校で美術教師をされていた方で、機会がある度にいろいろとお話をさせていただいている。

僕が以前このブログで書いた記事、「天の喜び」についてどう思うかと尋ねたところ、そうだね、ゆえなく憎まれるというようなこともあるけれど、ゆえなく愛されるということもあるのではないかな。例えば、妻を愛することなど、ゆえなく愛することなんだよな、と答えてくださった。

「ゆえなく愛される」。

これはいいことばだな、と思った。

理由はよくわからないけれど、でも愛されている。

御子イエス・キリストを通して、神様が私達に示された愛はかくも神秘的である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

妻が長旅(といっても一週間でしたが)から今日やっと帰ってきた。一週間「沈黙の館」と化したこのアパートの一室もまたにぎやかになった。

2011年3月2日水曜日

4千年前の祝福

使徒パウロはびっくり仰天するようなことを沢山書いている。その中のひとつに「4千年前の祝福」がある。

厳密に言うとパウロから見たら約2千年前だが、私達から見ると実に約4千年前である。その時代に生きた人に与えられた祝福が、今日生きる私達に、キリストを信じる信仰に通して与えられるのだ!

「聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによってすべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。(ガラテヤ人への手紙3章19-20節) 口語訳)」

2011年3月1日火曜日

私はすでに死んでいる?

主人公が敵にとどめを刺した後、「お前はすでに死んでいる」という決め台詞を言い放つ漫画が大分前に流行ったが(こう書くと僕の年代が大体わかりそうだが…)、この決め台詞よりもさらに衝撃的なことを使徒パウロは書いている。

すなわち、「私はすでに死んでいる」と。

「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉によって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。(ガラテヤ人への手紙2章19-20節 口語訳)」

キリストにある者は、すでにキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に死んだのだ!

そして、そのことにより罪の力から解放され、キリストと共に生き、御霊によって歩む者とされたのである。

これは何年クリスチャンをやっていても、いつもびっくりさせられる偉大な神秘だ。

2011年2月20日日曜日

謙虚?

昨日は妻の仕事を午前2時まで手伝っていたため、今朝起きられず、結局午前中の礼拝には参加することができなかった。先週、3日も夜勤をこなしたあとにしっかりと礼拝出席していた、つわものの兄弟もいたけれど、僕にはそこまでの根性がなく、結局午後3時まで寝込んでしまった。

妻はすべての用事を終えてから3時くらいに帰ってきて、かき揚げうどんをつくってくれた。

その後、妻が昼寝をしている間、僕はネットで配信されているメッセージを聞くことにした。

タイトルは、”Humility, The Secret of Grace”。恵みの秘訣である謙虚さについてであった。

とてもよいメッセージであった。あの悪名高い悪の権化のようなイスラエル王のアハズでさえも、自分の非を認めてへりくだったときに神様は予定されていた裁きを延長され(第1列王記21:27-29)、へりくだる者に対して神は恵みを与えることが語られていた。

このメッセージを聞いたあと、僕は早速第一列王記のエリヤとアハズ王の一連の物語を読むことにした。エリヤがカルメル山でバアルの預言者と対決して大勝利を収めたところや、世話になっていたやもめの息子のためにお祈りして、その息子が死から甦ったところを読み進め、エリヤがオバデヤに会いに行くところあたりまで読んだときに、一本の電話が鳴った。

何だかちょっといやな予感がしたのだが、電話をとってみたら、案の定不動産のセールスの電話だった。

セールスの電話がくるとき、僕は大抵うちの電話番号はどこで入手しましたかと尋ねるようにしている。そうすると、大抵地域の電話番号を手当たり次第に順番にかけていますというような答えが返ってくる。そのあと、今は興味はないのでと丁重に断ると、大抵わかりましたと言って、電話を切っていただける場合が多い。

今回も僕はまず“この電話番号はどこで入手しましたか”と切り出したが、今回の人は “私はこの地域の担当なので”というあいまいな答え方をした。そこで僕はさらに突っ込んで、電話番号は個人情報ではないですかと言うと、相手の人は、いや電話番号は個人情報ではありませんと答えたので、ここから段々火がついてしまって口論になってしまい、僕も相手もむきになってしまった。

結局一度電話を切ったのだが、相手の人はもう一度電話をかけてきて“落ち着いてください”と言うので、僕はますますカーッとなってしまった。“おまえの会社の電話番号教えろ”と言ったら、“あなたが私の用件に答えないので、私もそれに答える義務はありません”と言われてしまい、何だかよくわからない話になってしまった。結局僕はもう一度電話を切り、しばらく電話線を外すことにした。

たとえしつこい勧誘の電話相手だとしても、怒ってしまったあとは何とも後味の悪いものである。僕も最後は相手に対して“おまえ”呼ばわりをしてしまったので、そこにはつい先ほどメッセージで学んだはずの“謙虚さ”はかけらもなかった。

僕は穏やかな性格のように見えるらしいが、実は一度何かのきっかけで逆上してしまうと、かなり怒りを爆発させてしまうときがある。後々になって、あのときはなんであそこまで怒ってしまったのだろうかと悔やんでしまう。なぜもう少し落ち着いて、理路整然と“謙虚”にNOがいえなかったのだろうかと。しかし、それがなかなかできないときがある。

妻も一部始終を聞いていたのだが、そういったしつこい勧誘電話をどうやってかわせばよいか、穏やかに教えてくれた。

何かのよい教えやメッセージを聞いたあとは、自分が霊的に少し向上したような気になるときがある。そして、平和で穏やかな気分でいたいものだ。しかし、主はそういうときにこそ、私たちの本当の姿をあえて見せてくださるときがあるような気がする。主は、別に意地悪をしているわけではないのだ。ある意味、僕らは自分の本当の姿を見てこそ、謙虚になれるのではないだろうか。自分の本当の荒削りな性格とみじめな姿を目の当たりにしてこそ、灰をかぶって、主の御前にへりくだることができるのではないだろうか。主が私たちの本当の姿を光の下で見せてくださること自体が大きな恵みなのかもしれない。あのとんでもないアハズ王でさえも一度は自分の非を認めてへりくだったときに、神様は恵みを授けたのだ。

結局そのあと妻とお祈りしてから、僕は一日外に出ていなかったので、スーパーに買い物に行った。とてもおいしそうなぶりとしめさばの刺身があったので、それを買ってきて、二人で楽しく食事することができた。

(上で紹介したメッセージは以下のサイトからダウンロードできます。すべて英語ですが、主に対してとても忠実な兄弟達のメッセージが多数聞けます。)
http://www.christiantapeministry.com/tape-page.php?id=3013

2011年2月5日土曜日

主の助けと導き

先日、小さいけれど次のような良いことがあった。

昼休み、あることでどうしようものかと思案しながら外を散歩していたのだが、会社に至る坂の入り口の前の角を曲がったとき、ちょうど相談したいと思っていた同僚にバッタリ出会った。

僕はすでに昼食は済ましていたのだが、とりあえず同僚が向かっている店まで一緒に行くことにした。その日は陽が出ていて、寒さの中でもポカポカと太陽の暖かさを感じることができ、歩いていて気持ちよかった。僕は同僚に自分の状況と自分の考えを説明し、話をしているうちに段々考えが整理されてきて、自分のとるべき行動と言うべきことが大体見えてきた。この同僚は、僕よりも社会経験のある人でしかもとても聞き上手なのだ。とりあえず同僚が向かっていたタイ料理屋まで行き、そこで別れた。

それからまた戻って、会社に至る坂を登っていたとき、もう一人の同僚に出会った。なぜか最近ちょっと気まずくなった同僚で、僕は仲直りできるようにお祈りしていたのだ。僕は彼に声をかけて、しばらく立ち話をした。大した話をしたわけでもないが、笑っている中になんとなく気まずさもなくなった。

そして気持ちよく仕事に戻ることができた。こうした小さいことの中に、主の助けと導きを感じることができた。

2011年1月28日金曜日

今日は代休をとりました


今日は代休をとって、妻と大船にあるスーパー銭湯、「湯快爽快」に行きました。


去年の11月頃から仕事で非常に厳しい状況が続いており、それが年を越し、さらに春先までヘビーな案件が重なります。


昨日はぎりぎりまでデータや見積もりなどの作成に追われていましたが、それを何とか終えて、終電の前の1本で帰ってきました。代休をとることを周りの同僚も喜んでくれました。

去年の年末は、毎日終電近くの電車で帰ってくる日々が続きましたが、ずっと家で待っている家内には相当な負担がかかってしまいました。僕の心も仕事のことでいっぱいになってしまい、夫婦でじっくり話をする時間が奪われてしまいました。


しかし、ここにきて夫婦が共に過ごす時間がどれほど大事なことであるかを思わされています。

そんなに大したことをしたわけでもないですが、お風呂に行ったり、買い物に行ったり、一緒にご飯をつくったり、今日はとても楽しかったです。

しかも、明日も明後日も休み!

(写真は去年ハワイのカイルアビーチで撮ったものです。)

天にある喜び

日常生活の中で受ける圧迫というものがある。例えば、会社生活でいうと、上司からのプレッシャー、お客さんからの理不尽な要求、難しい人間関係、長時間労働等々。もちろん、自分自身の弱さ、未熟さ、卑怯さがかえって自分を圧迫する結果をもたらす場合もよくある。この「私」が「私」を圧迫するのだ。

このような圧迫を受けるとき、「私」はその場から逃げ出したくなる。もっと楽で楽しい道があるのではないかと思うのだ。

しかし、「私」がこれらの圧迫を十字架として主イエスとともに担うとき、それは不思議と軽くなる。なぜなら、「私」は一人で十字架を負うのではなく、主とともに担うからだ。

人々から受ける憎悪というものがある。これは実に不思議なものである。なぜこれほど人から憎まれなければならないのか、わからないときがある。しかし、主イエスもこの地上で激しい憎悪に真っ向から直面せざるを得なかった。

サタンは神の御子を激しく憎んだ。そしてその同じ憎悪が、キリストの御霊を受けた私たちに向けられるときがある。主ははっきりと言われた。あなたがたはこの世で憎まれる、と。

こうした、日常生活の圧迫や憎悪の究極的な形が「十字架」であると言えるかもしれない。主イエスご自身も十字架にかかる前夜、そのあまりにもの壮絶さの前に苦しみもだえた。

しかし、その十字架の上で「私」は主とともに死に、あらゆる圧迫も憎悪もすべて死に至らしめられる。そして死に至ったとき、そこには静寂がある。

しばらく静寂のあとには復活の朝が訪れる。もはや圧迫も憎悪も消え失せ、すべては主の復活のご栄光の中に呑み込まれる。そしてそこに天の喜びがあるのだ。

私たちの喜びはこの地にあるものではない。もちろん、今日は食事がおいしかっただとか、天気がとてもよかっただとか、日常の普通のことは普通に喜ぶ。

しかし、私たちの喜びは究極的には地に属するものではなく、天に属するものである。

だから主はいみじくも言われた。

「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、またありもしないことで悪口雑言をいわれたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい、喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者もそのように迫害されました。」(マタイの福音書51112節)

2011年1月23日日曜日

S兄弟の訪問

福島の山奥の山小屋で暮らしているS兄弟が今日ウチを訪問してくださった。
 
昨日電話をくださり、そして今日ウチにお迎えすることになったのだ。
 
主にある交わりは突然のときがある。
 
考えてみると、聖書の中でもかなり唐突に人が登場するときが度々ある。パウロがダマスカスに向かう途上でも主が唐突に現れ、パウロは地に倒れた。
 
人の計画によらずに、主の霊の中で歩むとき、突然交わりが与えられるときがある。
 
初めて会う兄弟と駅で待ち合わせをし、そしてすぐに打ち解けることができた。
 
鍋を囲って交わりを深めていくなかで、キリストの十字架と復活のリアリティーが強く心に迫ってきた。そして、兄弟が帰るときには、なんとも言えない霊の充実感があった。
 
自分の生活が知らず知らずのうちに、主の十字架を拒絶していたことに気づかされた。そして夫婦でそのことを悔い改めることができた。
 
主の十字架を経た復活の命。そこにこそ喜びがある。