このような圧迫を受けるとき、「私」はその場から逃げ出したくなる。もっと楽で楽しい道があるのではないかと思うのだ。
しかし、「私」がこれらの圧迫を十字架として主イエスとともに担うとき、それは不思議と軽くなる。なぜなら、「私」は一人で十字架を負うのではなく、主とともに担うからだ。
人々から受ける憎悪というものがある。これは実に不思議なものである。なぜこれほど人から憎まれなければならないのか、わからないときがある。しかし、主イエスもこの地上で激しい憎悪に真っ向から直面せざるを得なかった。
サタンは神の御子を激しく憎んだ。そしてその同じ憎悪が、キリストの御霊を受けた私たちに向けられるときがある。主ははっきりと言われた。あなたがたはこの世で憎まれる、と。
こうした、日常生活の圧迫や憎悪の究極的な形が「十字架」であると言えるかもしれない。主イエスご自身も十字架にかかる前夜、そのあまりにもの壮絶さの前に苦しみもだえた。
しかし、その十字架の上で「私」は主とともに死に、あらゆる圧迫も憎悪もすべて死に至らしめられる。そして死に至ったとき、そこには静寂がある。
しばらく静寂のあとには復活の朝が訪れる。もはや圧迫も憎悪も消え失せ、すべては主の復活のご栄光の中に呑み込まれる。そしてそこに天の喜びがあるのだ。
私たちの喜びはこの地にあるものではない。もちろん、今日は食事がおいしかっただとか、天気がとてもよかっただとか、日常の普通のことは普通に喜ぶ。
しかし、私たちの喜びは究極的には地に属するものではなく、天に属するものである。
だから主はいみじくも言われた。
「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、またありもしないことで悪口雑言をいわれたりするとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい、喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者もそのように迫害されました。」(マタイの福音書5章11-12節)
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