2011年6月27日月曜日

最も深い闇の中で

「地は形がなく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。(創世記1章2-3節)」

神様はどんな暗いところでも、光を「在らしめる」ことができるお方です。神様が光を在らしめることのできない程の深い闇は存在しないことを、この創世記の最初の数節は示しています。ここには天地創造の前の闇があったわけですから、いわば究極の闇がありました。

人間はエネルギーをつくりだすことはできません。人間は神様のつくりだしたエネルギーによる恩恵で日々生かされています。自然の法則に逆らって人間がつくった(或いは破壊によって捻出した)エネルギーが如何に悲惨な結果に招いたかを今日私たちは見ることになりました。人間のつくったこの不自然なエネルギーは、死のにおいが充満しています。それに対して、神がつくりだすエネルギーにはいのちがあります。これは誰もが今日感じていることかと思います。

神様は、人間社会の最も暗いところにいる者の中にも光を宿らせることができます。その光は「復活のキリスト」です。復活のキリストの光は、この世が放つ光とは決定的に違います。

驚くことに、神様はご自身の光が宿るように、この世で見捨てられた人々、とるに足らない者を選ぶのです。

自分の弱さや愚かさを見るとき、そこには輝くようなものは何もないかのように感じます。そう、実際に何もないのです。しかし、この何もない私たちの中に、突如として復活のキリストは輝くのです。これは偉大な神秘です。

しかも、このことは十字架の死を通して、日常で受ける圧迫の中で、キリストと共に死ぬときに実現するのです。

人間社会の最も深い闇の象徴である十字架。この最も深い闇の中に、神様は突如光を「在らしめる」のです。

2011年6月12日日曜日

うれしい出会い

今日の夜、妻が東京駅から高速バスに乗って東北に旅立ちました。3泊4日の短い旅となります。

いわきに夜中に着き、そこでいわきの教会のチームに合流し、車で岩手の大槌町に。避難所から仮設住宅への引っ越しのお手伝いなどもするそうです。

かねてから東北でボランティアをしてきたM姉妹と一緒に行くことになりました。僕はいろいろとあって、なかなかボランティアに行くことができないというか、主がお許しにならないのですが、妻に行く機会が与えられて、とてもうれしいです。

僕は家内を見送りに東京駅まで行ったのですが、とてもよかったのは、そこに同じく見送りに来ていた二人の韓国人のクリスチャンの青年と出会えたこと。家内とMさんを見送ってから、3人で八重洲地下街の喫茶店に入ったのですが、いろいろな交わりをもつことができました。

今回の日本の震災を取材していて、ビデオを制作しているSさん。もう一人は日本に留学している大学生で、既に被災地も訪れているMJさん。二人とも、今回の日本の震災に対して深い思いがあり、いろいろなかたちで関わりをもつように導かれているようです。

思いもよらず、クリスチャンの兄弟姉妹との交わりに導かれたときは、いつもそこに大きな喜びがありますね。世代や国は違っていても、深いところでキリストにあって同じ思いを共有できるからです。普段自分が生きている小さく狭い世界から解き放たれて、より広い場所へと導かれるような感じです。

以下にSさんが制作したビデオがあるので、よかったら是非見てください。若いクリスチャン達のとてもすばらしい証があります。