2010年7月19日月曜日

主は私たちの弱い部分を取り扱われる

 
関心を持つがゆえに、私たちを愛するがゆえに、そして主の御目的に私たちを用いようとして、弱い部分を取り扱おうとなさいます。繰り返し繰り返し私たちの最も弱い部分が扱われます。同じ繰り返しの訓練の中で私たちは変えられていきます。
 
べテルというところで本当の意味で神の臨在を知ったヤコブでした。そのときから、彼の生涯は新しくされたはずです。
 
「私はあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。私は、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と神にはっきり約束されたヤコブです。彼は神を恐れる者とされました。
 
それならば、彼はいちいち神の御心を求めて、神に伺い、神のご計画に生きればよいはずです。慎重に御心を求め、果たしてこれが神の道なのか、それともあれが主の道か、そのように確認して進むべきではないでしょうか。
 
神の臨在を覚えて生きるということは、見えざる神への信仰者としての問いかけを前提としてのことでなければなりなせん。けれども、ヤコブはまだまだひとりで生きようとしている、ということではなかったかと思われます。
 
私たちはどうでしょうか。損にならないように必死で自分を守り、たとい些細なことでも小さくうそをつき、ごまかし、欺き、自分の小さな幸せを守ろうと必死になって、膠着した歩みのままでいるということはないでしょうか。神の聖さを少しも学ぶことができず、主の臨在を頭で理解しながら、具体的な歩みの中では矛盾した生き方を続けているということがあることを思います。それは何度も問われていることです。
 
けれども、神はそれをそのまま放っておくことをなさいません。見えざる神の御霊は私たちに問いかけ、私たちの傍らに立たれ、ご自身をお示しになり、そして、私たちを神の聖さに近づけようとされます。神に聖さに近づけられるので、いよいよ罪を思わされ、悔い改めへと導かれます。
 
あるときは、ヤコブのように、自分の為した失敗の結果を、反対の視点から見るように招かれることがある、ということです。自分こそ加害者であるということを知らせるために、神は被害者としての経験をお許しになることがあるということです。そうやって私たちは主に扱われ、ヤコブがそうであったようにその訓練の中で少しづつ変えられていくという恵みに与るのです。
 
そのとき突き放されたような孤独を感じるかもしれません。しかし、そこに神の臨在と愛を知るようにと挑戦なさいます。神がおられるということをもっと実感して知るように仕向けてくださいます。自分の力ではできないことですが、神が一方的な恩寵によって私たちを造りかえてくださり、聖化してくださるというのはそういうことなのです。神が勝手に何かをくださるというよりも、私たちの葛藤の現実のただ中に神がおられるということです。
 
そのような意味で初めの言葉をもう一度確認したいと思います。ヘブル人への手紙に、
 
「・・・『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」とあります。
 
ここで、この聖書の読者たちのことを、「その愛する者」「受け入れるすべての子」と言っています。
 
試みや戦いの中で、神様に愛されていることを知ることができるでしょうか。懲らしめや批判を経験しているときに、突き放された孤独と痛みの中でいじけてしまい、自分を慰めるだけの私たちでしょうか。それとも、懲らしめたり批判される、そういうお方の愛を確認することができるでしょうか。見えざる主の臨在を真の意味で知る者とされているでしょうか。自分を懲らしめるお方を愛することができるでしょうか。それとも自分は嫌われていると考えるでしょうか。
 
臨在を知ろうとせずに、ますます自分の悟りに頼って、我が道を行くことのないようにと願います。私たちのことを顧みられる主を賛美したいと思います。
 
(遠藤嘉信著「私を祝福してくださらなければ ‐ 荒削りの信仰者ヤコブの生涯」、第3章「試みられるヤコブ」よりの抜粋)