2007年12月1日土曜日

まったき信頼



もしわたしたちが真に神につながっているならば、わたしたちは神に、「わたしを自由にお使いください」と差し出し、神を信頼せねばなりません。明日のことに心を奪われてはなりません。その必要がないからです。神がそこにおられるのです。

わたしたちの修道会では、食べ物がないからとかベットが足りないからと言って、だれかを拒絶したことは一日たりともありません。それでも数千人の人びとと向き合っています。わたしたちのところには五万三千人のハンセン病患者がいますが、だれ一人として追い出された人はいません。わたしたちは月給も収入もありません。何もないのです。自由にいただき、自由に差し出すのです。これは実にすばらしい神の贈り物です。

神の摂理への信頼は、神がわたしたちを必ず助けてくださるという、強い生き生きとした信仰です。神がわたしたちを助けることがおできになるというのは確かです。神は全能だからです。そして、実際に助けてくださるということも確かです。聖書のたくさんのことばの中で、神はそう約束なさっているからです。神は限りなく約束に忠実なお方です。

キリストは、この信頼をもつようにと、わたしたちを励ましておられます。「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」。使途聖パウロも、すべてを与えてくださる主に私達の心配をゆだねるようにと命じています。神はその御子をあらゆる希望とともにお造りにくださったのですから。わたしたちを心にかけてくださらないはずがありません。聖アウグスチヌスはこう言います。「神は、あなたのために悪を引き受けてくださいます。そのような神があなたのために良きものを与えてくださることを疑えるはずがないのです。」

このようにして、鳥や花でさえも守られるか神の愛の摂理に、わたしたちは信頼するようにと招かれているのです。そうです、鳴き叫ぶからすの子を養ってくださる神、蒔くことも刈ることもせず、倉に取り入れることもしない鳥を養ってくださる神、野の花をあのように美しく装ってくださる神、そのような神が、自らに似せて造られ、自らの子どもにしてくださった人間を、もっと心にかけてくださらないはずがありません。わたしたちは、その愛の中にあって、神の似た者、神の子どもとして生活し、その戒めを守り、そして神を信頼するようにと招かれているのです。

わたしは、労働を事務的なものにしたくありません。いつまでもそれは愛の労働でありたいのです。神がわたしたちを苦悩に陥れることはけっしてないという、まったき信頼のうちに生きるのです。キリストのことばを信じなさい。何よりもまず、神の国を求めるのです。そうすれば、その他のものはすべて添えて与えられるのです。

主よ あなたの十字架とご復活のうちに見いださせてください
 
耐え忍んでゆく道を
 
日常の苦悩と葛藤の中にあって、日々死んでいく道を
 
その死によって
 
より豊かに創造的に生きることができるように

主よ、あなたは忍耐強く そして謙虚に受け入れられました

十字架とそのご受難のすべての苦しみを
 
そして それと同時に 人生の拒絶を

どうか わたしたちを助け

日々の痛みと葛藤を受け入れさせてください
 
成長のための機会として
 
あなたに似た者になるための機会として

あなたがわたしたちを必ず支えてくださるという信頼のうちに

忍耐と勇気をもって それらを受け取ることができますように

マザーテレサのことば
サンパウロ刊行「祈りー信頼の源へ」より

1 件のコメント:

もぷぷ さんのコメント...

ウォッチマンニーという人がいる。1920年代に生きたキリスト者だ。実は彼が若いときによく相談に行っていた。西洋からの宣教師がいた。ほとんど記録が残っていないので知られていない存在だ。しかし現存する書物からこんなことがわかっている。
ニーが何か問題を抱えてこの女性を訪ねていったとき、彼女にはある香りがあったという。「焼かれたような」香りだったそうだ。
あるとき彼女は主の御心を悟らされたがどうしてもそれに従えないという葛藤を覚えたそうだ。そのときに彼女はこう祈った。
「主よ。もう少々お待ちください。そうすればあなたが勝ちます。」