2008年3月23日日曜日

主の内的な受難について



今日は仕事の疲れがたまったせいか、午後2時まで寝込んでしまった。
  
それで、家でJOYと二人で家庭礼拝をもつことしした。
 
今日は特にイエス様の受難と復活を覚えて、イザヤ53章を読んだ。
 
「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。
 
人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(3節)」
 
むちによって打たれ、いばらの冠をかぶせられ、重たい十字架を担ぎ、ついには、手に釘を打ち込まれるという苦しみ。
 
しかし、こうした肉体的な苦しみの他に、イエス様は人からさげすまれる、という内的な苦痛を味わわれた。
 
僕は、今仕事をしていて、やはり、人からバカにされることが嫌で、頑張っていることが実に多いような気がする。また、ちょっと小ばかにするような態度をとられるのが怖くて、適切な言動ができるように神経過敏になっていることが多い。
 
まあ、そうやって頑張っても、結局外れたことを言ったり、やってしまったりするのだが...
 

それほど、人にさげすまれるという、内的苦痛を避けたいのだと思う。実際、人からバカにされたくないが一心に人は頑張るときもあるのではないだろうか。
しかし、イエス様は、神の子であるにも関わらず、十字架という肉体的な苦しみの他に、「人が顔をそむけるほどさげすまれ」るという実に激しい内的な苦しみを背負われた。
  

しかし、イエス様は、すべてが終わった後、
 

「自分のいのちの苦しみの激しい苦しみのあとを見て満足(11節)」
したのである。
 

主の受難と復活を覚えるとき、きっと人への不信感や怖れを乗り越えて、人ともう一度向き合う力が与えられるに違いない。

1 件のコメント:

もぷぷ さんのコメント...

イエスは父への従順を貫き通したというよりその甘い交わりの中に人間生活を送っていたのであるが、一箇所だけ葛藤しているところがある。十字架にかかる前のゲッセマネの祈りのときだ。イエスはいったい何がそんなにいやだったのか。十字架の痛さか。いやイエスにとって一番の苦痛は私たちの罪を負うことであったと思う。罪のまったくなき人が・・・