2010年7月19日月曜日

主は私たちの弱い部分を取り扱われる

 
関心を持つがゆえに、私たちを愛するがゆえに、そして主の御目的に私たちを用いようとして、弱い部分を取り扱おうとなさいます。繰り返し繰り返し私たちの最も弱い部分が扱われます。同じ繰り返しの訓練の中で私たちは変えられていきます。
 
べテルというところで本当の意味で神の臨在を知ったヤコブでした。そのときから、彼の生涯は新しくされたはずです。
 
「私はあなたとともにあり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。私は、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と神にはっきり約束されたヤコブです。彼は神を恐れる者とされました。
 
それならば、彼はいちいち神の御心を求めて、神に伺い、神のご計画に生きればよいはずです。慎重に御心を求め、果たしてこれが神の道なのか、それともあれが主の道か、そのように確認して進むべきではないでしょうか。
 
神の臨在を覚えて生きるということは、見えざる神への信仰者としての問いかけを前提としてのことでなければなりなせん。けれども、ヤコブはまだまだひとりで生きようとしている、ということではなかったかと思われます。
 
私たちはどうでしょうか。損にならないように必死で自分を守り、たとい些細なことでも小さくうそをつき、ごまかし、欺き、自分の小さな幸せを守ろうと必死になって、膠着した歩みのままでいるということはないでしょうか。神の聖さを少しも学ぶことができず、主の臨在を頭で理解しながら、具体的な歩みの中では矛盾した生き方を続けているということがあることを思います。それは何度も問われていることです。
 
けれども、神はそれをそのまま放っておくことをなさいません。見えざる神の御霊は私たちに問いかけ、私たちの傍らに立たれ、ご自身をお示しになり、そして、私たちを神の聖さに近づけようとされます。神に聖さに近づけられるので、いよいよ罪を思わされ、悔い改めへと導かれます。
 
あるときは、ヤコブのように、自分の為した失敗の結果を、反対の視点から見るように招かれることがある、ということです。自分こそ加害者であるということを知らせるために、神は被害者としての経験をお許しになることがあるということです。そうやって私たちは主に扱われ、ヤコブがそうであったようにその訓練の中で少しづつ変えられていくという恵みに与るのです。
 
そのとき突き放されたような孤独を感じるかもしれません。しかし、そこに神の臨在と愛を知るようにと挑戦なさいます。神がおられるということをもっと実感して知るように仕向けてくださいます。自分の力ではできないことですが、神が一方的な恩寵によって私たちを造りかえてくださり、聖化してくださるというのはそういうことなのです。神が勝手に何かをくださるというよりも、私たちの葛藤の現実のただ中に神がおられるということです。
 
そのような意味で初めの言葉をもう一度確認したいと思います。ヘブル人への手紙に、
 
「・・・『わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」とあります。
 
ここで、この聖書の読者たちのことを、「その愛する者」「受け入れるすべての子」と言っています。
 
試みや戦いの中で、神様に愛されていることを知ることができるでしょうか。懲らしめや批判を経験しているときに、突き放された孤独と痛みの中でいじけてしまい、自分を慰めるだけの私たちでしょうか。それとも、懲らしめたり批判される、そういうお方の愛を確認することができるでしょうか。見えざる主の臨在を真の意味で知る者とされているでしょうか。自分を懲らしめるお方を愛することができるでしょうか。それとも自分は嫌われていると考えるでしょうか。
 
臨在を知ろうとせずに、ますます自分の悟りに頼って、我が道を行くことのないようにと願います。私たちのことを顧みられる主を賛美したいと思います。
 
(遠藤嘉信著「私を祝福してくださらなければ ‐ 荒削りの信仰者ヤコブの生涯」、第3章「試みられるヤコブ」よりの抜粋)

2010年6月28日月曜日

知識が知恵を妨げる



若い姉妹よ、将来のことを思い煩うことなく、静かな平安の中で生きてください。あなたがこの世で未来があるかどうかは、神様だけが知っておられます。もしかしたら、未来はないかもしれません。実際のところ、自分のものであるといえるような日は一日もないのです。クリスチャンは、今日という日を神様の計画に従って歩まなければなりません。今日という日は神様のものです。

今やっていることに続けて励んでください。あなたがその方向にいくべきと感じているのですから、きっと成し遂げられるでしょう。しかし、いっぺんに多くのことをやり遂げようとしないでください。何よりも、今この瞬間に忠実になってください。物事をひとつひとつ行えば、必要な恵みは充分に受けられるでしょう。

ただ単にこの世から離れているだけでは充分ではないことをあなたはきっと理解しているかと思います。私たちは、この世から離れ、それを誇りに思ってしまうことがあります。ですから、自分を低くすることに特別な注意を払わなければなりません。この二つのことの違いをよく理解してほしいのです。この世から離れるということは、この世の外的な事柄を放棄することです。しかし、謙虚になるということは、内なる自我が取り扱われることです。すべてのプライドを捨て去る必要があります。プライドがどれほど危険なものであるかわかりますか。特に、一見正しく温和に見える知恵や道徳の影に隠れているプライドが危険なのです。

私たちは、あらゆる状況において謙虚にならなければなりません。決して自分を誇ってはなりません。特に自分のすぐれたところや特別な能力を誇ってはなりません。私がこのように言うのは、あなたが自分の力、自己放棄、自分の正しさにあまりにも頼りすぎていると思うからです。これらはあなたの力ではないということを知る必要があります。それらは、神様のものなのです。

私たちは、赤ん坊から学ぶことができます。赤ん坊は、自分のものを何ももっていません。ダイヤモンドもりんごも同じように扱います。赤ん坊のようになってください。自分のものを何ももたないでください(どのみち神様のものですから)。自分を忘れてください。すべてのことにおいて道を譲ってください。最も小さき者を自分より偉大な者としてください。

お祈りするときは、心をこめて単純な祈りを捧げてください。これは、よく考えられて洗練された祈りよりも遥かに勝っています。

喪失を経験するとき、深い祈りと魂の沈黙の中で、最も多くを学ぶことができます。この中でこそ、自己中心的な思いを拒否し、謙虚さ、無名であること、弱さと従順を愛することを学ぶのです。これらのことは、この世ではあまりにも軽蔑されていますが、実は真理への先導役なのです。人間の知識は妨げにしかなりません。

From Letter 15 - "Our Knowledge Stands in the Way of Our Becoming Wise", Fenelon

2010年4月24日土曜日

日本とアメリカ

 
今日は、近所にある根岸米軍基地でFriendship Dayなるものが開催された。これは、普段立ち入るこのできない米軍の施設を地域の住民に開放し、日米親善を図る米軍主催のイベントだ。大体年に2回行われるのだが、うちから近いということもあって、僕たちはほぼ毎回行っている。入り口で荷物検査があり、それを通過すると、そこはもうアメリカの敷地内だ。
 
実は、15年ほど前、僕が大学生の頃、ここは普段でも一般の住民が入ることができた。米軍の施設といっても、軍事施設ではなく、あくまでも米軍住宅の付属施設のようなものであり、レストラン、スーパー、ボーリング場、プール、映画館などの施設がある。建物のつくりはやはりアメリカのものであり、日本にありながらも、アメリカを体験できる場所である。日曜日に教会の礼拝の帰り、みんなでこの根岸ベースにあるレストランで食事をしたこともあった。
 
今では中に入れるのは年に2回だけになってしまったが、その年2回のFriendship Dayでは、地域の人々がどっと押し寄せ、とてもにぎやかな場所になる。外国人も日本人も大勢いて、一瞬ここが日本なのかアメリカなのかわからなくなる。
 
僕にとっては、このような国際的な空間は実はとても心地よい。普段は日本人に囲まれて仕事しているわけだが、このようにいろいろな人種がいる環境は何だか落ちつく。
 
妻はイベントやお祭りが大好きで、バンドや和太鼓グループの演奏をとても楽しんでいた。
 
日本に駐屯している米軍に関しては、いろいろと問題が提起されているが、横浜の根岸では、割とお互いうまく共存しているようだ。それは、もちろんここが軍事施設ではないということも大きな要因かもしれない。
  
日本とアメリカの関係をいろいろと掘り下げてみると、いろいろなもつれや矛盾が沢山見えてくる。一番の問題は、やはり日本がなかなかアメリカから自立できず、アメリカも日本をなかなか自立させずに自分達に依存させておこうとするところにあるのかもしれない。この共依存的関係から抜け出し、お互い自立した国家として、ほどよい距離を保ちつつ尊重し合えるような日は果たしてくるのであろうか。現実を考えると、いろいろと難しい問題が未だに山積しているように思える。
  
国と国の関係というものはとても難しいものである。イエス・キリストは、終わりの日には、国は国に対して立ち上がり、民族は民族に対して立ち上がると、預言された。そしてまさしく現代の世界はそのようになっている。民族と民族との間の問題は、世界のどの地域を見ても、いろいろな問題が山積している。
 
しかし、そうしたいろいろな問題や矛盾の中でも、この根岸のFriendship Dayは、あまり深く考えずに、単純に国際交流と食べ物と音楽を楽しむ日だ。そして、僕もあまり深く考えず、単純にその場の雰囲気を楽しむようにしている。
  
妻は、食べ物や出し物をとても楽しんでいたが、今回はピーカンパイが売りに出ていなかったことを、あとでちょっと嘆いていた。なので、今度いつか桜木町にあるBubby’sで食べようねと言って慰めた。

2010年1月23日土曜日

今日のデートコースは...




定番の伊勢佐木町です!
 
まずはパスに乗って伊勢佐木町に向かい、それからブックオフに行ってから妻が探していた本を探し、それから元気寿司へ。本当は「元祖寿司」という名前のお店なのですが、なぜか私達は元気寿司と呼んでいます。ここは、サービスでつぶ貝マヨネーズを100円を切る値段で出していて、これが意外とおいしいです。



 
 
それから電車に乗り、「いふり湯」へ。今日は妻がちょっと神経痛になったみたいなので、いふり湯の黒湯が効くのではないかと思い、行くことに。大体妻は長くお風呂に入っているので、僕は早目にあがってから、いつもマッサージチェアをやり、それから新聞を読んでいます。そこには、読売新聞と神奈川新聞しかないのですが、読売も意外と面白いな、とここで発見しました。
 
それはともかく、「いふり湯」も本当の名前は「いなり湯」。ここもなぜか私達はずっと勝手につけた名前で呼んでいます。なぜ、私達は素直にその店の本当の名前で呼ぼうとしないのでしょうか。こういうどうでもいいような小さいところでも一致してしまうところに、相性の良さがあり、結婚に至ったのかもしれません。
 
ところで、私達もとうとう結婚満3年を超えました。3年目に入っての実感は、まずます一緒にいて楽しくなったということです。なんというか、呼吸が合ってきたというか、生活のパターンを二人でつくりあげてきて、その基礎がほぼ完成しつつあるというフェーズに来たのかもしれません。
 
もちろん、結婚の確かな土台はやはり主イエス・キリストであることには間違いありません。
 
聖書は驚くべきことを言っています。
 
「なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子にあって造られ、御子のために造られたのです。
 
御子は万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。
 
(コロサイ人への手紙1章16-17節)」
 
このイエス・キリストに結婚生活、そして人生の土台を置けば、まず間違いはないと、結婚生活4年目に入ってますます確信を深めています。
 
というわけで、これから伊勢佐木町に向かいます!


追記:
 
デートから帰ってきました。寿司もおいしく、風呂も気持ちよかった!
 
さて、今日の戦利品:



ブックオフとその他古本屋2軒を巡り、この4冊で何と総額1550円!


左から、
 
小型口語訳聖書 (皮のカバー) - 僕は口語訳がけっこう好きで、通勤で持ち運べる小型聖書を探していました。
 
三谷幸喜著 気まずい二人 - 妻は三谷幸喜の本にはまっています。
 
三浦綾子著 イエス・キリストの生涯 - 良さそうなので買いました。
 
ロイドジョンズ著 詩篇73篇 附ハバクク書講解 - これは貴重な本だと思い買いました。何と1971年発行。僕が生まれた年です。正しき者の苦しみという、深いテーマを取り上げています。

2010年1月4日月曜日

神の愛を忘れるほどまでに自分の欠点に失望しないように




自分の欠点を気にしすぎないようにしてください。それよりも、イエス様に対する尽きぬ愛をもつことに集中しましょう。多く愛する者は多く赦されます(ルカ7:47)。しかし、愛そのものよりも、愛の気持ちよさ、自己中心的なワクワク感(これらは愛の副産物です)を追い求める傾向に気をつけなければなりません。わたしたちは、簡単に自分を欺いてしまいます。「愛」に集中するあまり、重要なポイントを完全に見逃すことがあります。あなたは最愛の方その人よりも、愛に心を奪われていると、聖フランシスコ・サレジオは言いました。もしわたしたちの愛の主な対象がイエスであるならば、わたしたちはイエスの愛にすっぽりと包まれます。しかし、イエスの愛を確かめようといつも気を揉んでいるとすれば、まだ自我に囚われているのです。


イエスの霊を通して、平安の内に自分の欠点を見つめるとき、イエスの愛の神秘の中でそれは消えていきます。しかし、イエスがわたしたちを愛してくださっていることを忘れて、自分の欠点に気をとられるとき、わたしたちは落ち着きを失い、神の臨在が妨げられ、神の愛の流れが堰きとめられます。自分の欠点を恥ずかしく思うあまり、神の愛を忘れてしまうならば、そのことが欠点そのものよりも大きな間違いとなり得ます。ですから、自分の欠点に失望しすぎないようにしましょう。先日次のような人に会いました。その人は、ある聖徒の物語を読んだ後、自分の人生との違いに腹が立ち、献身的なクリスチャン生活を歩むことを諦めてしまいました。この人のようにはならないでください。
 
あなたからの手紙を読むとき、その筆跡から平安と自由伝わってきて、それだけあなたが忠実に歩んでいることがわかります。あなたがより平安に満ち、より自由であるほど、あなたは神により近いようです。

From "Letter 13 - Despair at Our Imperfections Is a Grater Obstable Than the Imperfection Itself" in "Let Go", written by Fenelon

2009年12月27日日曜日

Living with Joy





喜びをもって生きること

それはきっと

泣く者と一緒に泣き

喜ぶ者と一緒に喜ぶこと
 
 
壊れてしまった関係もたくさんある
 
愛したくてもなかなか愛することのできない人もたくさんいる
 
自分の本当の姿を見るとき
 
何ともいえない無力感に陥る
 
惨めさ、悲惨さ、心にこびりついた劣等感
  
こうした弱さは
 
いつになったら乗り越えられるのだろうか
 
もしかしたら、それらは乗り越えることなく
 
一部分残しておかれるものもあるのかもしれない
  
 
しかし
 
十字架にかかった神の御子の愛が
 
2000年の時空を超えて
 
僕を貫き
 
僕の弱ささえも包むとき
 
僕は
 
泣く者と一緒に泣き
 
喜ぶ者と一緒に喜ぶことのできる者となる
 
 
これは神秘としか
 
言い様がない
 
そしてここに
 
この世が決して与えることのできない
 
「喜び」がある

2009年12月16日水曜日

妻がいないとつまんない



これは別にしゃれではないのだが、妻がいないと何だかつまんない。

昨日から、妻は2泊の小旅行に出ていて不在だ。いろいろと用事もあり、独身の女友達の家を泊まり歩いているのだ。
 
先ほど電話で話したら、向こうは大変充実しているらしい。こっちは正直、全然充実していない。あまりにも充実していないので、久しぶりのこのブログを更新することにした。
 
正直言うと、妻がこの小旅行に行く前、これでネットやりたい放題だと心の中でちょっと思った。
 
ところが、昨晩はネットをやっていてもちっとも面白くなかった。
 
それはきっと普段はいろいろなサイトもみながらも、無意識のうちに何かしら妻と会話をしているからかもしれないと思った。。「あのさあ、だれだれのブログ久しぶりに更新されてあったけれど、今回はなかなか面白かったよ」などと、知らずにたわいのない会話をしているから楽しいかもしれない。
 
独身の頃は、それなりに一人の世界を楽しめた時期があった。しかし僕の場合、30代の中半くらいに限界が来た。
 
そのころ、近所に住んでいたニューヨーク出身のアメリカ人が急にふらっと夜遊びに来ることがあった。彼はいろいろと自分の人生や信仰について語り、僕は大体聞き役だったのだが、あるとき彼は僕に一つ質問した。「君は結局何をしたいんだい」。そのとき、僕は少し考えて、「そうだね、結婚がしたいかな」と答えた。
 
そのように答えた瞬間、僕は自分の人生がもはや一人では前に進まなくなっていることに深く気付いたのだと思う。その1年後くらいだろうか。今の家内と付き合い始めたのは。
 
とても短い間だが、こうして一人になってみると、その頃のことも思い出されて、伴侶が与えられている恵みをもう一度想起させられる。
 
僕のことはさておき、妻が今日泊まっているところは昔からの大親友の家で、これからビデオ上映会するそうだ。明日はちゃんと帰って来てくれるかな...

2009年9月30日水曜日

ぎりぎりセーフで9月も何とか更新しました




















今日更新しないと、9月中は一度も更新しなかったことになるよ、


と妻に言われて、急遽更新することにしました。


書くことはたくさんあるのですが、何と言うか、なかなかそれがかけないんですよね。


この前山に行きましたとか、この前釣り行きましたとか。


そう、それで実はこの前連休の最後の日、釣りに行きました。


妻がもともと釣りが好きで、去年伊豆に行ったとき、一緒に初めて釣りをしたのですが、一年ぶりに釣りしに行きました。


場所は本牧の海釣り公園。ここが結構気持ちのいい場所で、桟橋から海をボーっと眺めているだけでも楽しいです。


サビキ釣りで、あじを狙ったのですが、この日はかなり釣果が低く、僕たちも釣れませんでした。


隣の小学生の竿にはぼらが引っかかったのですが、ぼらがだいぶ暴れたため、僕たちの糸も絡まってしまいました。けれど、ぼらを海から引き上げてから、糸が切れてしまったのですが、少しだけ釣った気分を味わうには味わいました。


何も釣れなかったのですが、でもとても何だか爽快な気分にはなりました。


夫婦で釣りにいくことはいいことです。この趣味なら末永く一緒にやっていけるかもしれません。まあ、あまり頻繁に行くことはないでしょうけれど。


妻はお風呂に入ると言っていたのですが、横で寝てしまいました。


ところで、来週は、僕もやっと夏休みをとります。というか、夏休みをとることができなかったので、やっと有給休暇をまとめてとります。


予定は、韓国旅行です!

2009年8月20日木曜日

最近は定時に帰っています

最近は、何とか仕事を6時までに終えて、家に帰っています。
 
6時過ぎに出ると、早くて7時半には家に帰れるので、妻とゆっくり食事ができます。
 
今日は7時45分ごろに家に帰ってきたのですが、一緒に食事をしながら、いろいろな話しができました。
 
本来、人間は日が沈む頃に仕事を終え、家族との団欒を楽しみ、疲れをとって、ぐっすり寝て、また力を得て次の日精力的に仕事に向かうのが自然なのでしょう。
 
こうした自然のリズムで働くことがなかなか難しい世の中ですが、その中で、最近は何とか仕事を早く片付けられる状況になっているのことは、本当に感謝です。

2009年7月2日木曜日

骨がひとつだに折られることがない


 

最近はとかく悩みが多かった。
 
会社の業績が悪化し、全社員3ヶ月間給料が一律20パーセントカットになった。それに伴い、人員整理も行われ、僕と親しくしていた同僚2人に加え、5人ほどリストラに。
 
従業員と経営側との間でちょっとした争議にもなった。
 
今ようやく落ち着いてきて、給与カットされた分は年末には返ってくることにはなっているが、やはり、同僚のリストラは精神的に大きな打撃だった。
 
それに加え、アメリカにいる弟が今就職難で生活が困窮している。少しばかりは援助したが、困窮した生活を送る弟のことを思うと、何とも気が重い。
 
こんなことをブログで書いても、読む方もうんざりするだろうから、書かなかった。が、書いてしまった。人間、やはり心の中に溜まったことは吐き出した方がよさそうだ。
 
こうした中で一つの聖書のことばが僕の心をとらえた。


「正しい者には災いが多い。
 
しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。
 
主は彼の骨をことごとく守られる。
 
そのひとつだに折られることはない。
 
(詩篇34篇20、21節 - 口語訳)」
 
 
正しい者はには災いが多い。なるほど、そうなのか。僕は決して、自分を「正しい者」であるとは思わないが、しかし、災いや苦労は多いものなのか、と、このみことばを読んで妙に納得してしまった。
 
確かに考えてみれば、聖書に登場する人物は、実に多くの災い、苦労を経験している。
 
モーセ、ダビテ、エリヤ、イザヤ、数えたらきりがない。
 
使途パウロにいたっては、
 
「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。幾たびも旅をし、川の難、盗賊の難、同国民の難、異邦人の難、都会の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、うえ渇き、しばしば食物がなく、寒さに凍え、裸でいたこともあった。なおいろいろの事があった外に、日々わたしにせまってくる諸教会の心配ごとがある。(第2コリント人への手紙 11章24-28節)」
 
と、まさに苦難のオンパレードである。しかし、彼が、
 
「もし誇らねばならないのなら、私は自分の弱さを誇ろう」
 
とこの箇所で続けて言っているのは、素晴らしいと思う。
 
そして、イエス様は、まさに災いと苦難の究極の形、「十字架」を耐え忍ばれた。
 
しかし、彼らがこうした苦難を経ても、「骨一つ折られなかったこと」も事実だ。ある意味、この詩篇は、イエスさまが十字架の上で骨が折られることがなかったことも預言しているのかもしれない。
 
苦難というものは、それぞれが耐えられるキャパシティーがあるので、比べることはできないが、2000年前の使徒の時代も大変であれば、現代日本のサラリーマン生活もなかなか大変だ。どっちが大変かといえば、まあ、やはり使徒の時代だろうと思うが、しかし、全体的に鉛色の空が覆いかぶさっているかのような今の時代で、サラリーマン生活をするのもなかなか大変だ。比べるのは無意味かもしれない。
 
しかし、その「すべての中から助け出されて骨ひとつ折られない」というのは素晴らしいと思う。これは、まさに主の約束なのであるから。
 
まあ、とにかくもう少し楽しいことを書けるといいのだが、僕はどうしても、なぜか文章を書くとこういう調子になってしまう。
 
前にも書いたが、妻は、いろいろと日常の出来事を楽しく書けるから、これは本当に才能だと思う。
 
まあ、いろいろあった中で妻が支えてくれたのは、本当に大きかった。やはり、結婚というのもよいものである。
 
また、今月給料カットされる中で、妻に臨時収入があった。まさに主は必要を備えてくださった!

2009年5月10日日曜日

また何でもないことなのだが、



今日の夕飯はとても美味しかった。
 
かつおの刺身サラダ、あつあげのオリーブ炒め、もやしとにらの味噌汁、たくあんとごはん。それから、梅酒。
 
世の中では、特別豪華というほどの食事ではないのかもしれないが、僕にはとても豪華で美味しく感じられた。
 
今週末はとてもゆっくりできた。特に何をしたというわけでもなかったのだが、妻と一緒に過ごすだけで楽しかった。
 
 
「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。

繰り返して言うが、喜びなさい。

あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。

主は近い。

何事も思い煩ってはならない。

ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。

そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」
 
(新約聖書 ピリピ人への手紙4章4節ー7節)

2009年4月4日土曜日

特に何もなかったけれどいい日だった


 
 今日は、特に何もなかったが、いい日だった。

 でも今週は妻がちょっと疲れがたまってせいか、いろいろと考え込んでしまって、少し調子が悪かった。

 一日家でのんびりしていたのだが、夕方になって心機一転して、根岸森林公園に夜桜を見にいった。雨も降っているせいか、人はほとんどいなかったけれど、雨の中の夜桜もなかなかよかった。

 その後、いつも行く小さなスーパー上州屋に買出しに行った。明日は妻が昔から付き合っている宣教師の家族が遊びに来るので、いろいろと食材を買い込んだ。

 夕飯が僕がジンジャオロースをつくって、妻がスープをつくった。これもなかなかおいしかった。

 それから、妻は意を決して「いふり湯」に行くことに。僕は、とりあえず途中まで送ることにした。

 やっぱり銭湯のお風呂はとてもよかったらしい。お風呂で、神様が「私はあなたといつも一緒にいたよ」、と語ってくださったそうだ。 10円のマッサージチェアも2回やったそうだ。

 今日は特に何でもない日だったけれど、とてもいい日だった。

 写真はちょっとピンボケしているが、根岸森林公園の夜桜。

2009年3月28日土曜日

行き詰まり



妻は、日常の中で起こったいろいろな楽しい出来事をブログに軽妙な文章で書き綴るのだが、僕はどうもそれができない。
 
いろいろと楽しいことはあるし、妻との生活の中で学ぶこと、感じることは沢山あるのだが、それがなかなかまとまった文章として結晶していかない。
 
いや、むしろ僕は何かに行き詰っているとき、思い悩んでいるときに、何か文章を書きたくなる。
 
今日は、妻がある友人の朗読会に行ったので、僕は家でひとりパソコンに向かいながら、いろいろと思い悩んでいた。またいろいろと行き詰っている。
 
しかし、思い起こせば、これまでの37年間の人生の中で行き詰まったことは何度もあった。 
 
妻と最初にデートをしたとき、僕は失業中だった。その上、教会もあまり行っていなかった。社会の中でも、いわゆる「キリスト教世界」の中でも居場所がないように感じてしまい、とても深い挫折感を抱いていた。 
 
その最初のデートでは一緒に映画を観に行ったのだが、帰りに喫茶店に入って一緒に飲み物を飲んでいたとき、僕は彼女に言った。僕は社会でも、キリスト教の世界でも両方で失敗した人間なんだよ、と。 
   
そのとき妻は言ってくれた。Williamくんは、そんなことで終わる人ではないよ、と。
 
このことばがそのときとても嬉しかった。こういうことを言ってくれた女性は初めてだったので、僕は彼女と結婚したのかもしれない。 
 
今こうして曲がりなりにも普通に仕事をし、日曜日には妻と一緒に教会の礼拝に出席している。実はとても幸せな生活をしているのだろう。 
 
今の行き詰まりに対しても、イエス様はきっとささやくような小さな声でやさしく言ってくださっているのだろう。 
 
お前はいつまでもそこに留まることはないよ、 
 
しばらくの間だけ、苦しむかもしれないが、 
 
やがて死ぬべきものが死んだとき、 
 
また新しく私と一緒に生きるようになるよ、と。